太上天皇
太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)は、譲位により皇位を後継者に譲った天皇の尊号[1]、または、その尊号を受けた天皇。由来は、中国の皇帝が位を退くと「太上皇」と尊称されたことにある。元々は譲位した天皇が自動的に称する尊号であったが、嵯峨天皇の譲位以降は新天皇から贈られる尊号に変化した。
略称は「上皇」である。また、出家した太上天皇を、「太上法皇(法皇)」と称する。ただし、これは法的な根拠のある身位ではなく、太上法皇も太上天皇に含まれる。また、太上法皇の称号が用いられた初例は宇多法皇とされており、聖武上皇や清和上皇などそれ以前の退位後に出家した太上天皇には太上法皇(法皇)を用いるのは正確な表現ではない。
「院」とも称され、太上天皇が治天の君として政務を執った場合、その政治を院政という。三宮(后位)と合わせて「院宮」といい、更に、皇族や有力貴族を含めた総称を「院宮王臣家」といった。院の御所が仙洞御所と呼ばれたことから、「仙洞」も上皇の謂として用いられる。
概要
編集日本の皇室における譲位の初例は皇極天皇であったが、この時点では君主号は「天皇」ではなく「大王」であり、当然「太上天皇」という称号もなかったため「皇祖母尊」(すめみおやのみこと)という臨時の尊号が設けられた[注釈 1]。また、その後皇極天皇自身が、斉明天皇として重祚している。 その後、大宝令において太上天皇の称号が定められたことで、持統天皇11年(文武天皇元年)8月1日(697年8月22日)、持統天皇が文武天皇に譲位し、史上初の太上天皇(上皇)になった。
日本の皇室には、江戸時代後期仁孝天皇に譲位した光格上皇まで、計59人の上皇が存在した。つまり、歴代天皇のうち半数近くが退位して上皇となっている。ただし、平安時代以降「天皇の崩御」という事態そのものが禁忌として回避されるようになり、重態となってから譲位の手続きが行われて上皇の尊号が贈られ、直後に崩御した例が多い。醍醐天皇は譲位後8日、一条天皇は10日、後朱雀天皇は3日で崩御している(ただし、こうしたケースの場合、後述される次代の天皇による太上天皇の称号奉上が間に合っていない)。後一条天皇に至ってはその崩御があまりにも急であったためそれさえも間に合わず、その事実を隠したまま譲位の手続きを進め、それが完了してからはじめて崩御を公表するありさまであった。江戸時代の後光明天皇などでも同様のことがあった。後桃園天皇に至っては、正式な在位終了日が崩御日の10日後という異常な状態のままになっている。これは、あくまでも「天皇の崩御」ではなく「上皇の崩御」として取り扱うための便法である。
持統天皇以来、太上天皇の称号は退位した天皇が自動的に称するものであり、特段の儀式は必要なかった。時代が下って嵯峨天皇は、自らの異母弟である淳和天皇への譲位に際し、太上天皇の称号の辞退を申し出た。太上天皇は在位の天皇を親権者として支えることから、天皇と同格の権威と権限を有するものとされていたが、嵯峨天皇の場合、兄に過ぎず親権者ではない平城上皇との間で権力の分掌をめぐって深刻な対立を生じ(薬子の変)、ついにクーデターで兄を排除せざるを得なくなった。このため、二重権力の弊害を避けるために太上天皇を辞退したものである。ただ淳和天皇はこれを受け入れず、最終的には淳和天皇が嵯峨天皇に対して太上天皇の称号を奉上する(淳和天皇が嵯峨天皇に対して太上天皇の称号を宣下する)ことで解決がはかられた。これにより、太上天皇の意味合いは、新天皇から与えられる地位に変化したのである。これを踏まえて歴史学界では、一般に、平城までの太上天皇はそのまま「太上天皇」と呼び、嵯峨天皇以降の太上天皇を「上皇」と呼び分ける慣習となっている。
なお、仁明天皇や後醍醐天皇のように、退位と崩御がほぼ同日だったため、退位後も存命だったにもかかわらず太上天皇の宣下が見送られたケースもある。また淳仁天皇は、藤原仲麻呂の乱の結果として強制的に皇位を追われ、淡路国に流されたまま崩御したことから、「淡路廃帝」と呼ばれて歴代天皇として認められず、尊号は贈られなかった。安徳天皇も弟の後鳥羽天皇の即位により廃帝とみなされた。仲恭天皇は即位の礼も経ないまま位を追われたため、即位の事実自体を認められず「九条廃帝」「後廃帝」と呼ばれてやはり歴代天皇から外され、宣下はなされなかった。なお、 淳仁天皇と仲恭天皇については、明治天皇によって改めて尊号が追号された。
光厳天皇は後醍醐天皇の政権奪取により廃位され、即位の事実自体も否定されたが「皇太子を辞退したことに対する褒賞」として特例で太上天皇の称号を認められた。崇光天皇も観応の擾乱のさなか足利尊氏の南朝への降伏(正平一統)により北朝が一時的に消滅したため廃位となったが、融和策を採った南朝側の配慮で太上天皇とされている。後村上天皇・長慶天皇は南朝により太上天皇とされた可能性があるが、北朝側は承認しなかった。後亀山天皇も北朝側から歴代天皇として認められず、かろうじて太上天皇の称号は得たものの、これは足利義満が朝廷の反対を押し切って独断で決めた強引なものであり、それさえも「天皇になっていない太上天皇」の扱いを受けた。
孝謙天皇は、いったん退位して太上天皇となったのち、後任の淳仁天皇を廃位した上で自ら称徳天皇として重祚し、天皇に復帰した。上皇から天皇に復帰したのは、ほかに後醍醐天皇の例があるが、こちらは元弘の乱に敗れて御謀叛方となった後醍醐天皇側があくまで退位を拒み、京都では光厳天皇が在位し、自らは隠岐に流されている間も「自分が正統な天皇である」と主張し続けた結果であり、本人は最後まで重祚とは認めなかった。江戸時代までの一般的な皇室系図では後醍醐天皇を重祚とした上で便宜上一代とし光厳も歴代天皇となっていたが、明治維新によって南朝正統となった結果、2023年(令和5年)現在の皇統譜は後醍醐側の主張を容認し光厳を歴代外の天皇としている。
その他、天皇としての即位を経ずに太上天皇位を受けた者が2名(後高倉院・後崇光院)おり、薨去後に太上天皇号を贈られた者が2名(誠仁親王、陽光院・閑院宮典仁親王、慶光天皇)いる。足利義満は、後円融上皇の在世中とその没後に治天の権限を代行していたことを踏まえ、死に際して太上天皇の尊号を贈られたが、後継者の足利義持が辞退した。閑院宮典仁親王は生前に尊号が贈られることが決定していたが、幕府の反対により受けることはなかった(尊号一件)。
2019年(平成31年)4月30日の第125代天皇明仁の譲位に際して制定された「天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)」では「太上天皇」の略称である「上皇」を正式称号とした。
皇室典範制定後の動き
編集明治時代の旧皇室典範起草時、『高輪会議』における伊藤決裁により、「譲位規定を削る」、「太上天皇の規定も削る」とされ[2][3]、戦後の皇室典範にも引き継がれている。
旧・皇室典範が制定されて以降、第123代大正天皇、第124代昭和天皇、第125代天皇明仁の皇位継承においては「諒闇践祚」、すなわち天皇の崩御後、直ちに皇嗣が践祚し即位する形が採られたため、太上天皇(上皇)の奉上・宣下・譲位はいずれも行われなくなっていた。しかし、2017年(平成29年)に第125代天皇明仁の退位を行うための特例法である天皇の退位等に関する皇室典範特例法(退位特例法)が定められ、2019年(平成31年)4月30日に第125代天皇明仁が退位し、2019年(令和元年)5月1日に今上天皇(徳仁)が即位した。退位した第125代天皇は、特例法の規定により上皇となった。
年少記録と年長記録
編集天皇を退き上皇となった最年少記録は六条上皇の3歳3か月。最年長記録は明仁の85歳4か月で、太上天皇に限ると光仁上皇の71歳5か月。
歴代上皇
編集
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同時在位
編集同時に多数の上皇が並立した最多記録は5人。 正安3年1月28日(1301年3月9日)から嘉元2年7月16日(1304年8月17日)までの3年5月。この期間に後深草上皇・亀山上皇・後宇多上皇・伏見上皇・後伏見上皇の5名が在位した。
- 天皇が上皇と同時に在位していた期間
年 | 天皇 | 上皇 | ||||
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文武天皇元年(697年) | 文武 | 持統上皇 | ||||
文武天皇7年(703年) | ||||||
和銅8年/霊亀元年(715年) | 元正 | 元明上皇 | ||||
養老5年(721年) | ||||||
養老8年/神亀元年(724年) | 聖武 | 元正上皇 | ||||
天平20年(748年) | ||||||
天平21年/天平感宝元年(749年) | 孝謙 | 聖武上皇 | ||||
天平勝宝8歳(756年) | ||||||
天平宝字2年(758年) | 淳仁 | 孝謙上皇 | ||||
天平宝字8年(764年) | ||||||
称徳 | ||||||
神護景雲4年/宝亀元年(770年) | ||||||
宝亀12年/天応元年(781年) | 桓武 | 光仁上皇 | ||||
天応2年/延暦元年(782年) | ||||||
大同4年(809年) | 嵯峨 | 平城上皇 | ||||
弘仁13年(822年) | ||||||
弘仁14年(823年) | 淳和 | 嵯峨上皇 | ||||
天長10年(833年) | ||||||
仁明 | 淳和上皇 | |||||
承和7年(840年) | ||||||
承和9年(842年) | ||||||
貞観18年(876年) | 陽成 | 清和上皇 | ||||
元慶5年(881年) | ||||||
元慶8年(884年) | 光孝 | 陽成上皇 | ||||
仁和3年(887年) | ||||||
宇多 | ||||||
寛平9年(897年) | ||||||
醍醐 | 宇多上皇 | |||||
延長8年(930年) | ||||||
朱雀 | ||||||
延長9年/承平元年(931年) | ||||||
天慶9年(946年) | ||||||
村上 | 朱雀上皇 | |||||
天暦3年(949年) | ||||||
天暦6年(952年) | ||||||
安和2年(969年) | 円融 | 冷泉上皇 | ||||
永観2年(984年) | ||||||
花山 | 円融上皇 | |||||
寛和3年/永延元年(987年) | ||||||
一条 | 花山上皇 | |||||
正暦2年(991年) | ||||||
寛弘5年(1008年) | ||||||
寛弘8年(1011年) | ||||||
三条 | 一条上皇 | |||||
長和5年(1016年) | 後一条 | 三条上皇 | ||||
長和6年/寛仁元年(1017年) | ||||||
寛徳2年(1045年) | 後冷泉 | 後朱雀上皇 | ||||
延久5年(1073年) | 白河 | 後三条上皇 | ||||
応徳4年/寛治元年(1087年) | 堀河 | 白河上皇 | ||||
嘉承2年(1107年) | ||||||
嘉承3年/天仁元年(1108年) | 鳥羽 | |||||
保安4年(1123年) | ||||||
崇徳 | 鳥羽上皇 | |||||
大治4年(1129年) | ||||||
永治2年/康治元年(1142年) | ||||||
近衛 | 崇徳上皇 | |||||
久寿2年(1155年) | ||||||
後白河 | ||||||
久寿3年/保元元年(1156年) | ||||||
保元3年(1158年) | ||||||
二条 | 後白河上皇 | |||||
長寛2年(1164年) | ||||||
長寛3年/永万元年(1165年) | ||||||
六条 | 二条上皇 | |||||
仁安3年(1168年) | ||||||
高倉 | 六条上皇 | |||||
安元2年(1176年) | ||||||
治承4年(1180年) | ||||||
安徳 | 高倉上皇 | |||||
治承5年(1181年) | ||||||
治承6年(1182年) | ||||||
治承7年(1183年) | 後鳥羽 | |||||
建久3年(1192年) | ||||||
建久9年(1198年) | ||||||
土御門 | 後鳥羽上皇 | |||||
承元4年(1210年) | ||||||
順徳 | 土御門上皇 | |||||
承久3年(1221年) | ||||||
仲恭 | 順徳上皇 | |||||
後堀河 | ||||||
寛喜3年(1231年) | ||||||
寛喜4年/貞永元年(1232年) | ||||||
四条 | 後堀河上皇 | |||||
天福2年/文暦元年(1234年) | ||||||
暦仁2年/延応元年(1239年) | ||||||
仁治3年(1242年) | ||||||
寛元4年(1246年) | 後深草 | 後嵯峨上皇 | ||||
正元2年/文応元年(1260年) | ||||||
亀山 | 後深草上皇 | |||||
文永9年(1272年) | ||||||
文永11年(1264年) | ||||||
後宇多 | 亀山上皇 | |||||
弘安10年(1287年) | ||||||
伏見 | 後宇多上皇 | |||||
永仁6年(1298年) | ||||||
後伏見 | 伏見上皇 | |||||
正安3年(1301年) | ||||||
後二条 | 後伏見上皇 | |||||
嘉元2年(1304年) | ||||||
嘉元3年(1305年) | ||||||
徳治3年/延慶元年(1308年) | ||||||
花園 | ||||||
正和6年/文保元年(1317年) | ||||||
文保2年(1318年) | ||||||
後醍醐 | 花園上皇 | |||||
元亨4年/正中元年(1324年) | ||||||
元弘4年/建武元年(1334年) | 光厳上皇
(北朝) |
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建武2年(1335年) | ||||||
建武3年/延元元年/建武3年(1336年) | 後醍醐上皇 | |||||
延元2年/建武4年(1337年) | ||||||
延元3年/建武5年/暦応元年(1338年) | ||||||
延元4年/暦応2年(1339年) | 後村上 | |||||
正平3年/貞和4年(1348年) | ||||||
光明上皇
(北朝) | ||||||
正平6年/観応2年(1351年) | 崇光上皇
(北朝) | |||||
正平19年/貞治3年(1364年) | ||||||
正平23年/貞治7年/応安元年(1368年) | ||||||
長慶 | ||||||
建徳2年/応安4年(1371年) | 後光厳上皇 | |||||
文中3年/応安7年(1374年) | ||||||
天授6年/康暦2年(1380年) | ||||||
天授7年/弘和元年/康暦3年/永徳元年(1381年) | ||||||
弘和2年/永徳2年(1382年) | 後円融上皇
(北朝) | |||||
弘和3年/永徳3年(1383年) | ||||||
後亀山 | 長慶上皇 | |||||
元中9年/明徳3年(1392年) | ||||||
後小松 | ||||||
明徳4年(1393年) | 後亀山上皇 | |||||
明徳5年/応永元年(1394年) | ||||||
応永5年(1398年) | ||||||
応永19年(1412年) | ||||||
称光 | 後小松上皇 | |||||
応永32年(1425年) | ||||||
応永35年/正長元年(1428年) | ||||||
後花園 | ||||||
永享5年(1433年) | ||||||
寛正5年(1464年) | 後土御門 | 後花園上皇 | ||||
文明3年(1471年) | ||||||
天正14年(1586年) | 後陽成 | 正親町上皇 | ||||
天正20年/文禄元年(1593年) | ||||||
慶長16年(1611年) | 後水尾 | 後陽成上皇 | ||||
元和3年(1617年) | ||||||
寛永6年(1629年) | 明正 | 後水尾上皇 | ||||
寛永20年(1643年) | ||||||
後光明 | 明正上皇 | |||||
承応3年(1654年) | ||||||
承応4年/明暦元年(1655年) | 後西 | |||||
寛文3年(1663年) | ||||||
霊元 | 後西上皇 | |||||
延宝8年(1680年) | ||||||
貞享2年(1685年) | ||||||
貞享4年(1687年) | ||||||
東山 | 霊元上皇 | |||||
元禄9年(1696年) | ||||||
宝永6年(1709年) | ||||||
中御門 | 東山上皇 | |||||
宝永7年(1710年) | ||||||
享保17年(1732年) | ||||||
享保20年(1735年) | ||||||
桜町 | 中御門上皇 | |||||
享保21年/元文元年(1736年) | ||||||
元文2年(1737年) | ||||||
延享4年(1747年) | 桃園 | 桜町上皇 | ||||
延享5年/寛延元年(1748年) | ||||||
寛延3年(1750年) | ||||||
明和7年(1770年) | 後桃園 | 後桜町上皇 | ||||
安永8年(1779年) | ||||||
安永9年(1780年) | 光格 | |||||
文化10年(1813年) | ||||||
文化14年(1817年) | ||||||
仁孝 | 光格上皇 | |||||
天保11年(1840年) | ||||||
令和元年(2019年) | 今上 | 上皇明仁 | ||||
令和6年(2024年) |
幕末の御料
編集国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』には、摂津国島下郡のうち下中条村の一部・鮎川村の一部・吹田村の一部・上野村の全域の計1,896石8斗8升9合が「仙洞御領」として記載されている。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年(平成23年))1375頁、1683頁、1684頁及び松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年(平成18年))1226頁参照。
- ^ 齊藤雅俊 (2016年7月21日). “明治皇室典範10条(「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」)に関して”. 2021年1月15日閲覧。
- ^ 「高輪会議」における『皇室典範再稿(柳原前光内案)』逐条審議、伊藤決裁[第十二条(譲位)、第十五条(太上天皇)] : 皇室典範、皇族令、草案談話要録 (1887年(明治20年)3月20日) は、梧印文庫研究会編著『梧陰文庫影印−明治皇室典範制定本史- 』(1986年(昭和61年)8月1日発行、國學院大學)、国立国会図書館憲政資料室所蔵「憲政史編纂会収集文書 [リンク切れ]」に所収。
参考文献
編集- 宮内庁書陵部著『皇室制度史料(太上天皇(一)」(吉川弘文館、1978年) ISBN 4642011315
- 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年) ISBN 400080121X
- 松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年) ISBN 4385139059
- 退位した天皇の退位理由一覧 (PDF, 260 KB)