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天正地震

安土桃山時代に中部地方で発生した巨大地震

天正地震(てんしょうじしん)は、安土桃山時代天正13年11月29日1586年1月18日)に日本中部地方で発生した巨大地震である。

天正地震
天正地震の位置(日本内)
天正地震
本震
発生日 天正13年11月29日(1586年1月18日)
震央 北緯36度00分 東経136度54分 / 北緯36.0度 東経136.9度 / 36.0; 136.9座標: 北緯36度00分 東経136度54分 / 北緯36.0度 東経136.9度 / 36.0; 136.9[1]
規模    M7.8(諸説あり)
最大震度    震度7
津波 あり
被害
死傷者数 死者多数
被害地域 日本の旗 日本
プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
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2日前の11月27日1月16日)にも地震の記録があり、27日に越中・飛騨(現在の富山・岐阜)を震源とするM6.6-7.0の地震、29日に美濃・尾張・伊勢(現在の岐阜・愛知・三重)を震源とするM7.8-8.0の地震が別々に発生したとする説と、29日にM8.2の巨大地震が単一で発生したとする説がある[2]。なお、11月30日1月19日)に誘発地震と考えられる地震が発生した[3]

天正大地震(てんしょうおおじしん)、天正の大地震(てんしょうのおおじしん)とも呼ばれる。また、各地の被害から長浜大地震(ながはまおおじしん)[4]白山大地震(はくさんおおじしん)、木舟大地震(きふねおおじしん)[5]天酉地震(てんゆうじしん)[6]とも呼ばれる。

概要

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天正地震の震度分布[7]

被害地域の記録が日本海若狭湾から太平洋三河湾に及ぶ、日本史上例のない大地震であるため、震源域もマグニチュードもはっきりした定説はなく、いくつかの調査が行われているが震央位置も判明していない[8]

同地震の規模を知ることが困難な背景としては、発生当時が戦国時代末期に当たり豊臣秀吉による東日本支配が完了していない時期であったため、統治機構の混乱から文献による歴史資料が残り難かったことが挙げられる。

地震の記録がある文献に『東寺執行日記』、『多聞院日記』などがあり、『梵舜日記』(別名『舜旧記』『舜舊記』)には約12日間にわたる余震が記録されている[9]

三河にいた松平家忠の日記(『家忠日記』)によると、地震は刻(22時頃)に発生し、翌日の丑刻(2時頃)にも大規模な余震が発生したとある。その後も余震は続き、翌月23日まで一日を除いて地震があったことが記載されている。

震源域

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近畿から東海北陸にかけての広い範囲、現在の福井県、石川県、愛知県、岐阜県、富山県、滋賀県、京都府、奈良県、三重県(越中加賀越前飛騨美濃尾張伊勢近江若狭山城大和)に相当する地域にまたがって甚大な被害を及ぼしたと伝えられる。また阿波でも地割れの被害が生じており、被害の範囲は1891年濃尾地震(M8.0-8.4)をも上回る広大なものであった。そのことなどからこの地震は複数の断層がほぼ同時に動いたものと推定されている[10]。しかし、ひとつの地震として複数の断層が連動して活動したのか、数分から数十時間をかけて活動したのかは議論が分かれている[11]

震源断層

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震源断層は判明しておらず[8][11]、以下の通り幾つかの説がある。岡田 (2011)[12]によって、2010年以前の本地震に関する地震像研究がまとめられている。

  1. 飛騨庄川断層または阿寺断層[13]とする説
  2. 養老断層[14]及び伊勢湾断層とする説
  3. これらの断層が連動したとする説[15][3]
  4. 養老-桑名-四日市断層帯などの三つの大断層が動いたとする説[16]

1998年に行われた地質調査では、岐阜県にある養老断層[17]における2つの活動歴が確認され、最新の活動は15世紀以降であることから745年天平地震と共にこの断層が震源断層のひとつであった可能性が高くなった[18]とされている。

松浦 (2011)[2]は明確に被害が大きかったと推定されるのは、庄川沿いの谷筋(帰雲城)から越中西部(木船城)と、濃尾平野の南西部(長島城大垣城)から琵琶湖北東岸(長浜城)と分かれているとして、1586年1月16日に庄川断層帯北部でM7.0±0.2の地震が、翌々日18日に養老断層とその周辺の断層帯の一部でM7.9±0.1の地震が発生したと考察しており、伊那谷における大規模斜面崩壊は養老断層による地震か、或いは本地震の半年前(1585年7月31日)に発生した地震によるものではと推考している。また、松浦 (2012)[19]フロイスの『日本史』における若狭の長浜における津波被害の記述については信憑性が低いとした。

寒川 (2011)[20]は史料による被害地域と、トレンチ調査で同年代に最新活動が見られる断層として、本地震では庄川断層帯と阿寺断層帯の全体と、養老-桑名-四日市断層帯が活動したと考察した。

関西電力ほか (2012)[21]は、フロイスの津波被害の記述は地すべりで琵琶湖に沈んだ長浜市の下坂浜千軒遺跡であることを示唆しており、本地震によって若狭湾沿岸で町が壊滅するほどの津波発生はなかったとしている。

松岡ほか (2015)は本地震による伊勢湾沿岸及びその周辺での津波発生を示す信憑性が高い史料はないとした[22]

地震の規模

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文献による歴史記録や地殻変動の痕跡は年月の経過により失われ、地震像の詳細は不明である。規模は研究者により諸説あり、主な説は以下の通り。

  • 河角廣(1951):規模MK = 6. を与え[23]、マグニチュードは M - 7.9に換算されている。
  • 宇佐美龍夫(1996,2003):濃尾断層帯の武儀川断層から東北側を震源として、M - 7.8±0.1 程度[24]
  • 安達(1979):M - 8.1
  • 飯田汲事(1978,1987):震度分布から M - 8.2[25]。法林寺断層で、11月27日に M - 6.6 と養老断層の延長部で木曽川河口付近において、11月29日に M - 8.1[3]
  • 村松郁栄(1998):富山側で、11月27日に M - 6.6 と養老断層付近で M - 7.8[26]

被害

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帰雲城趾。背後の地滑り痕が天正地震による崩壊地[27]
 
帰雲山の崩壊跡(中央部)

津波

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琵琶湖湖北(『山槐記』)[33]若狭湾伊勢湾津波があったとされる記録がのこる[33]。しかし、海底下に変位領域が及んでいなくても海面の変動を引き起こす事があり[34]、必ずしも断層が海底に有る必要はない。

海岸線から約4.8kmの距離にある水月湖の湖底堆積物調査からは、水月湖に海水が流入した痕跡は見つかっていない[35]。しかし、水月湖までは到達する規模で無ければ痕跡が見つからないのは当然であり、見つからなかったことが津波が生じなかったとする証拠ではないとしている[35]

伊勢湾

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伊勢湾に津波があったとされる。加路戸、駒江、篠橋、森島、符丁田、中島などは地盤沈下したところに津波が襲来し水没した。善田は泥海と化した。伊勢湾岸では地震とともに海水があふれ溺死者を出した[36][37]

若狭湾

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兼見卿記』には丹後若狭越前など若狭湾周辺に津波があり、家が流され多くの死者を出したことが記され、『フロイス日本史』にも若狭湾沿岸の町で山ほどの津波に襲われた記録があり、日本海に震源域が伸びていた可能性もある[38]。 他にジアン・クラッセ『日本教会史』(1689年。明治時代に翻訳されて『日本西教史』[39][40])や『豊鏡』(竹中重治の子の竹中重門著。江戸時代豊臣秀吉の一代記)、『舜旧記』、『顕如上人貝塚御座所日記』、『イエズス会日本書翰集』などにも、詳しい記述がある[41][42]

2011年(平成23年)12月に原子力安全保安院は、敦賀原発の安全性審査のための津波堆積物と文献調査報告[43][44]を発表した。それによると「仮に天正地震による津波があったとしても、久々子湖に海水が流入した程度の小規模な津波であったものと考えられる。なお、事業者においては念のための調査を今後とも行っていくことが望ましいと考えられる。」としている[45]。2012年12月、再調査結果として大きな津波の跡は見つからなかったとしている[46]

2015年(平成27年)5月、山本博文らは福井県大飯郡高浜町薗部の海岸から500mの水田で、14世紀から16世紀津波跡を発見したと発表した[47][注釈 3][48]

フロイス日本史』(5、第60章、第2部77章)

ちょうど船が両側に揺れるように震動し、四日四晩休みなく継続した。
その後40日間一日とて震動を伴わぬ日とてはなく、身の毛もよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。
若狭の国には、海に沿ってやはりナガハマと称する別の大きい町があった。揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が遠くから恐るべきうなりを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。
(高)潮が引き返すときには、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑み込まれてしまった。
「やはりナガハマと称する別の大きい町」というのは、前の文章に「長浜城下で大地が割れた」と書いてあり、区別するためである。長浜城については「関白殿が信長に仕えていた頃に居住していた長浜と言うところ」という説明もあり、これは1574年(天正2年)に秀吉が築城を開始した琵琶湖東岸の長浜市にある長浜城を指し、若狭湾のナガハマとは別であることを明確に書いている。ナガハマは現在の福井県高浜町のことである[49]

吉田兼見兼見卿記[50]

廿九日地震ニ壬生之堂壊之、所々在家ユ(ア)リ壊数多死云々、丹後・若州・越州浦辺波ヲ打上在家悉押流、人死事数不知云々、江州・勢州以外人死云々

丹後・若州(若狭)・越州(越前)沿岸を津波が襲い、家々はすべて押し流され、死者は無数であった[注釈 4]

『舜旧記』(十一月二十九日条)

近国之浦浜々屋,皆波ニ溢レテ,数多人死也,其後日々ニ動コト,十二日間々也

クラッセ『日本教会史』(1689年)[42]

若狭の国内貿易の為に屢々(しばしば)交通する海境に小市街あり。此処は数日の間烈しく震動し、之に継ぐに海嘯(かいしょう、津波)を以てし、激浪の為に地上の人家は皆な一掃して海中に流入し、恰も(あたかも)元来無人の境の如く全市を乾浄したり
これには津波が若狭湾を襲ったのは、旧暦11月29日ではなく、その後の連動地震(または誘発地震)による津波であったとしている[注釈 5]

イエズス会日本書翰集』

若狭の国には海の近くに大変大きな別の町があって町全体が恐ろしいことに山と思われるほど大きな波浪に覆われてしまった。そして、その引き際に家屋も男女もさらっていってしまい、塩水の泡に覆われた土地以外には何も残らず、全員が海中で溺死した。

理學博士大森房吉 「日本ノ大地震二就キテ」 理學博士大森房吉 『震災予防調査会報告』32号、 p57-58

天正十三年十一月二十九曰(西暦千五百八十六年一月十八日)

山城、大和、河内、和泉、攝津、讃岐、淡路、伊賀、伊勢、尾張、三河、美濃、遠江、飛彈、越前、若狹、加賀大地震」沿海ニ津浪アリ

富山湾

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富山湾で津波が発生し溺死者多数といった情報や、庄川流域での被害多数といった情報[51]があるものの、実際発生したのは、同年1月16日に発生した越中地震による液状化現象であり、津波ではない[52]。庄川上流では天正地震により天然ダムが形成され、のちに決壊し、庄川流域に被害を与えている[53]

三陸沿岸

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宮城県本吉郡戸倉村(現在の南三陸町戸倉)口碑に、「天正13年11月29日畿内、東海、東山、北陸大地震の後に津波来襲」という記述があり、太平洋北部にも津波が来襲したか、連動地震による津波があった疑いがある[注釈 6][54][55]

一方で戸倉の口碑は天正十三年五月十四日(1585年6月11日)と記した史料もあり[9]、日付は異なるが1586年7月9日リマ地震による遠地津波との見方もある[56][57]

三陸大震災史(1933)[58]

正親町天皇天正十三年乙酉十一月二十九日、夜亥時、至子時、地大震、畿内及東海、束山、北陸三道殊甚、地裂水湧、屋舎毀壊、壓死者無算、是時濱海水溢、溺死者数多、斯後震動十二日。
按スルニ県下本吉郡戸倉村民ノ口碑二天正十三年五月十四日海嘯アリシト云フモノ蓋シ之ヲ指スモノナラン

噴火

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『四ツ半時、大地震あり。この時、硫黄山(焼岳)大噴火を起こし、麓中尾村は地形を大きく変貌する。』(顕如上人貝塚御座所日記)。 焼岳が噴火したという口碑がある[59][60]。しかし、有効な記録の残る文献による裏付けもないため真偽は不明である。

地震後

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1586年の天正大地震後、近い時期に大地震が複数起こっている。

  • 1596年9月1日(文禄5年7月9日慶長伊予地震(慶長伊予国地震)- M 7.0。
  • 1596年9月4日(文禄5年閏7月12日慶長豊後地震(大分地震) - M 7.0〜7.8。
  • 1596年9月5日(文禄5年閏7月13日慶長伏見地震(慶長伏見大地震) - M 7.0〜7.1。
  • 1605年2月3日(慶長9年12月16日)慶長地震東海・東南海・南海連動型地震) - M7.9〜8。
  • 1608年12月30日(慶長13年11月23日) 仙台で地震 - 津波で50人死亡[49]。
  • 1611年 9月27日(慶長16年8月21日) 会津地震 - M 6.9、死者3,700人。
  • 1611年12月2日(慶長16年10月28日慶長三陸地震 - M 8.1。
  • 1614年11月26日 (慶長19年10月25日) 高田領大地震- M 7.7 ...同じ日に日本海側の越後高田領と太平洋側の伊豆、銚子の両方の津波記録がある他、京、会津、伊豆、紀伊、山城、松山の地震被害記録があり、これらの記録を満足する単一の地震はあり得ないとされる[61]
  • 1662年 6月16日(寛文2年5月1日) 寛文近江・若狭地震(寛文地震)(畿内・丹後・東海西部地震、寛文の琵琶湖西岸地震、近江・山城地震) - M 7 1/4〜7.6、死者数千人。

朝鮮出兵のために肥前の名護屋にいた秀吉が伏見城を築いた際、1592年(文禄元年)に普請を担当した京都所司代前田玄以に送った書簡に、「ふしみのふしん、なまつ大事にて候まま」と記されていた。“なまず大事”=城の建築にあたっては地震対策を万全にせよ、という意味であるが、これは1586年の天正地震を念頭に置いたものとみられている[注釈 7]

日本原子力発電などによる2012年12月の発表では、天正地震の津波の記録を基にした調査により、敦賀市の猪ヶ池で約5,500年前の地層から津波によるとみられる砂が見つかった[63]

脚注

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注釈

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  1. ^ 城があった正確な位置は不明である。
  2. ^ この際、同城に滞在していた東常堯東常慶の子)も死亡したとみられる。
  3. ^ 山本は、海側にある10mの丘からは津波の痕跡が見あたらないので、笠原川沿いの津波が運んだと推測している。
  4. ^ 時刻を「子の刻」(午前0時ころ)とする報道があり、天正大地震の本震と若干異なるが、該当ページにはない。
  5. ^ 若狭で前兆となる地震が数日間あり、本震や津波はその後に来たとも読める。南海トラフの巨大地震でも、1カ所だけ前兆があったという例がある。
  6. ^ 天正13年5月14日にも三陸沿岸に津波が来襲したという。
  7. ^ 秀吉が、天正地震の時に琵琶湖沿岸にいたナマズがはねるのを見て、地震の原因をナマズと考えたためであるという。これ以前には地震とナマズを関連づけたものはないが、江戸時代にはナマズが地震を起こすという考え方に基づいて「鯰絵」が多く制作された。秀吉は地震後、即座に堅固な大坂城に避難する[62]。結局、伏見城は1596年の慶長伏見地震で崩壊し、「地震加藤」の逸話を生んだ。

出典

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  54. ^ 吉村昭「三陸海岸大津波」文春文庫版p60(2)
  55. ^ 昭和八年三月三日 三陸沖強震及津波報告
  56. ^ 第1章 チリ地震津波とは何であったのか (PDF) 害教訓の継承に関する専門調査会報告書, 1960チリ地震津波 報告書の概要
  57. ^ 首藤伸夫、越村俊一、佐竹健治、今村文彦、松冨英夫 『津波の事典』 朝倉書店、2007年
  58. ^ 三陸大震災史(1933)出典を『宮城県海嘯史』としている
  59. ^ 国土交通省 神通川水系砂防事務所
  60. ^ 桜島国際火山砂防センター
  61. ^ 宇佐美龍夫『最新版 日本被害地震総覧』東京大学出版会、2003年
  62. ^ 「災害史は語るNo.139 天正の大地震」伊藤和明のインサイドアウト<防災情報新聞
  63. ^ 敦賀原発近くの若狭湾で古い津波の痕 NHK 2012年12月18日 20時43分 Archived 2012年12月21日, at the Wayback Machine.

参考文献

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  • 1586年天正地震特集 日本断層学会 『活断層研究 Active Fault Research』35号、2011年9月, ISSN 2186-5337
  • 飯田汲事『天正大地震誌』名古屋大学出版会、1987年。 
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  • 武者金吉 編『大日本地震史料 増訂 一巻』文部省震災予防評議会、1941年、553-574頁。 国立国会図書館サーチ
  • 東京大学地震研究所 編『新収 日本地震史料 一巻 自允恭天皇五年至文禄四年』日本電気協会、1981年、138-170頁。 
  • 東京大学地震研究所 編『新収 日本地震史料 補遺 自推古天皇三十六年至明治三十年』日本電気協会、1989年、66-88頁。 
  • 東京大学地震研究所 編『新収 日本地震史料 続補遺 自天平六年至大正十五年』日本電気協会、1994年、23-26頁。 
  • 宇佐美龍夫『日本の歴史地震史料 拾遺』東京大学地震研究所、1999年3月、13-15頁。 
  • 宇佐美龍夫『日本の歴史地震史料 拾遺二』東京大学地震研究所、2002年3月、32頁。 
  • 宇佐美龍夫『日本の歴史地震史料 拾遺三』東京大学地震研究所、2005年3月、30-76頁。 
  • 宇佐美龍夫『日本の歴史地震史料 拾遺四ノ上』東京大学地震研究所、2008年6月、26-27頁。 
  • 安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」」『日本海域研究所報告』8号、1976年。 
  • 安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」-第6報 両城主をめぐる地震の被害、震度分布、余震等について-」『日本海学会誌』3号、1979年、61-76頁。 
  • 安達正雄「飛騨帰雲城と城主・内ヶ嶋氏の史実を探る -天正大地震の土石流で城と城下町が埋没し、放置されて四百二十年に当り-」『石川郷土史学会々誌』39号、2006年。 
  • 安達正雄「木舟城を陥没させ帰雲城を埋没させた天正大地震の真相―天正大地震は連続多発地震だった―」『石川郷土史学会々誌』42号、2009年。 
  • 松浦律子「天正地震の震源域特定 史料情報の詳細検討による最新成果」『活断層研究』35号、2011年、29-39頁。 doi:10.11462/afr.2011.35_29
  • 松浦律子「天正地震に関する欧州史料の素性と確実な内容」『地震』第65巻1号、2012年、1-7頁。 doi:10.4294/zisin.65.1
  • 外岡慎一郎「「天正地震」と越前・若狭」『敦賀論争』26号、2012年。 
  • 外岡慎一郎「史料と展示 「天正地震」の史料を読む : 若狭湾に津波は襲来したか (3.11からの歴史学(その1))」『歴史学研究』第903号、2013年、10-13頁。 NAID 40019581790
  • 宇佐美龍夫, 大和探査技術株式会社, 日本電気協会『わが国の歴史地震の震度分布・等震度線図』日本電気協会、1994年。 NCID BN10781006https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002533920-00 

関連項目

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外部リンク

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