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大王の道

1998年韓国のテレビドラマ

大王の道』(だいおうのみち、原題:大王의 길[1]〈テワンエギル〉)は、韓国MBC1998年4月から8月にかけて放送された、李氏朝鮮(朝鮮王朝)第21代王英祖王世子(日本の皇太子に相当)である思悼世子(荘献世子)[2]を主人公とした時代劇である。全34話。

大王の道
各種表記
ハングル 대왕의 길
漢字 大王의길
発音 テワンエ キル
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長らく日本では未放送だったが、2009年5月から9月にかけてスカパー!ch.720シーエスGyaOで、日本初放送された。ノーカット。字幕版のみでの放送。

ストーリー

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父英祖に愛されず苦悩する思悼世子。党派に分かれ権力争いをする貴族や、出世の野望を持つ英祖の側室は、己の利益のため親子の不仲に乗じ、思悼世子の廃世子を画策する。世子嬪・恵嬪ホン氏やホン氏一族は思悼世子を支え続けるが、思悼世子は次第に心の平衡を失っていく。嫡男・サン(後の正祖)が10歳になろうとする頃、英祖と思悼世子との確執はついに決定的な事態を迎える。

時代背景

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英祖は18世紀の朝鮮国王である。在位期間は1724年から1776年、52年間の長きにわたった。

当時朝廷は老論(ノロン)と少論(ソロン)の二大党派に分裂し、激烈な勢力争いを続けていた。英祖は即位当初自らを支持した老論派を登用したが、その後、官僚ポストに老論派と少論派を同数つける政治手法を用い、国内の安定を図った。しかし、思悼世子が少論派の貴族に師事し、世子嬪ホン氏の一族も少論派であったことなどから、老論派は世子を少論派と見なした。1749年に世子による代理聴政が始まり、老論派は権力が少論派に移行することを阻止するため、世子の廃位に向けて様々に画策を行うようになった。

一方、1757年英祖の正室・貞聖王后が死去し、1759年新たに15歳の貞純王后が継室に選ばれた。当時、英祖は66歳、思悼世子は24歳であった。貞純王后は自分より年長の世子を疎んじ、老論派とともに讒言に及ぶ。

1762年、ついに思悼世子は英祖から死を命じられる。

典拠

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劇中に描かれる思悼世子にかかわる出来事は、世子嬪の恵慶宮洪氏(正祖の即位後に宮号を受ける)の手になる『恨中録』(または『閑中録』とも)を典拠としている。『恨中録』は恵慶宮洪氏の晩年に回顧録として執筆された。劇中に度々引用される。

登場人物と出演者

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主要人物

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 朝鮮王朝第21代王。第19代王粛宗の次男として生まれるが、生母の身分が低く、幼少期は宮廷で粗略な扱いを受ける。朝廷の権力争いも絡み、20代王景宗毒殺の疑いを向けられるなど、王位継承を巡って生命の危機を感じた。幼い思悼世子が先代王毒殺について尋ねたことをきっかけに、思悼世子を疎んじるようになる。
 朝鮮王朝第21代王英祖の次男で、王世子。幼くして世子になるが、父英祖から愛されないことに苦しみ続ける。
 思悼世子の正室。第22代王正祖の実母。10歳で思悼世子に入宮、慎ましく穏かな性格で、傷心の思悼世子の支えとなる。
 英祖の側室。貧しい暮らしから逃れるため後宮に入り、英祖から寵愛を受ける。思悼世子をいずれ生まれるかもしれない自分の男児の敵と考え、世子の地位から追い落とす画策を巡らす。

王室の人物

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英祖の後妻。本貫老論派のため、陰で思悼世子を陥れようとする。

思悼世子に近い人物

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思悼世子と対立する人物

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その他の人物

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スタッフ

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脚注

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  1. ^ "대왕의 길" Daum. 2023年10月5日閲覧。
  2. ^ 世子の呼称の「思悼」は英祖からの追諡、「荘献」は正祖からの追尊によるものである。