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呉 (十国)

中国・五代十国時代の国のひとつ
大呉
唐 902年 - 937年 南唐
呉の位置
  917年の呉
公用語 漢語(中国語
首都 江都
(927年より皇帝を称する)
902年 - 905年 武忠王 楊行密
905年 - 908年景王 楊渥
908年 - 920年宣王 楊隆演
920年 - 937年睿帝 楊溥
変遷
より封ぜられる 902年
斉(後の南唐)に禅譲937年

(ご、902年 - 937年)は、中国五代十国時代江都を中心に江蘇省安徽省江西省を支配した国。江南の豊かな経済力を背景に強勢を誇ったが、李昪により簒奪され、南唐に取って代わられた。

歴史

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建国者の楊行密廬州合肥県(現在の安徽省合肥市長豊県)の人で、末の混乱の中で初めは群盗から軍に入り、無頼の徒を糾合して故郷の廬州を占領し、唐の懐柔策により廬州刺史となった。その後も周辺地域を切り取り、892年、楊行密は揚州を占領して「淮南節度使」になった。

更に長江を遡って中流域をも抑え、楊行密は一大勢力圏を築いた。その後、楊行密は南下してくる朱全忠(この時はまだ「後梁」を建てていない)と抗争した。この時、楊行密の軍は淮河の線を確保し、浙江に拠った呉越蘇州を巡って争うが、これには敗北して蘇州は呉越のものとなった。

これらの大勢力を持って楊行密は、902年に唐より「呉王」に封ぜられた。この時、楊行密は自立はしたものの、楊行密個人はあくまで唐の臣下としての立場を貫いており、死ぬまで唐の元号を用い続けた。

楊行密の力の源は群盗勢力や唐の残存兵を集めて編成した「黒雲都」(こくうんと)と呼ばれる親衛軍団であった。

この軍は全て黒い鎧をつけたことからこの名称がつけられた。楊行密はこの軍を利用して、いつも反対勢力の駆逐・弾圧を行なっていたが、しかしこの軍団に頼りすぎた結果、「黒雲都」の指揮官である徐温(じょおん)と張顥(ちょうこう)が軍組織の実権を握るようになった。

905年に楊行密が死去すると、長男の楊渥が次の「呉王」に擁立された。この時期に「呉」は江西藩鎮を倒して領域を南に広げ、からも鄂州(現在の湖北省武漢市)・岳州(現在の湖南省岳陽市)を奪い、「呉」は最大版図を実現した。

しかし、楊渥は「呉王」でありながら実際は徐温の完全な傀儡であり、楊渥はその傀儡の状態から脱しようとしたところ、908年に何者かに暗殺された。

908年、徐温は「黒雲都」の同僚の張顥を排除して「呉」の権力を一手に握り、楊渥の弟の楊隆演を次の「呉王」に即位させて、徐温は自らは太師となった。この時の楊隆演も傀儡の「呉王」として徐温に操られた。

920年、楊隆演が死ぬと徐温は弟の楊溥を次の「呉王」に擁立した。この時、徐温はすでに楊溥から自分に「呉王」の地位の禅譲を考えていたが、927年に徐温は野望半ばにして死去した。

その後、徐温の権力を引き継いだ養子の徐知誥(後の李昪)は、呉王の楊溥を皇帝の地位に進めさせた。

937年、徐知誥は楊溥から自分に皇帝位の禅譲を受けて皇帝になり、「」を建国した。ここに「呉」は滅亡した。その後、斉は国名を改称して「」(南唐)となった。

呉の統治者

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  • 楊行密は、睿帝により太祖武帝と追号された。
  • 楊渥は、睿帝により烈祖景帝と追号された。
  • 楊隆演は、睿帝により高祖宣帝と追号された。
代数 諡号 追号 名前 生没年 在位 備考
武忠王 太祖武帝 楊行密よう こうみつ 化源 852年 - 905年 902年 - 905年
景王 烈祖景帝 楊渥よう あく 承天 886年 - 908年 905年 - 908年 楊行密の長男
宣王 高祖宣帝 楊隆演よう りゅうえん 鴻源 897年 - 920年 908年 - 920年 楊行密の次男
睿帝 楊溥よう ふ 901年 - 938年 920年 - 937年 楊行密の四男

系図

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1太祖楊行密
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2烈祖楊渥
 
3高祖楊隆演
 
4睿帝楊溥
 

脚注

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