代明親王
平安時代中期の皇族。醍醐天皇の第三皇子。三品中務卿。
代明親王(よしあきらしんのう)は、平安時代前期から中期にかけての皇族。初名は将観(まさみ)。醍醐天皇の第三皇子。官位は四品または三品・中務卿。
代明親王 | |
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時代 | 平安時代前期 - 中期 |
生誕 | 延喜4年(904年) |
薨去 | 承平7年3月29日(937年5月12日) |
改名 | 将観 → 代明 |
官位 | 四品[1]または三品[2]、中務卿 |
父母 | 父:醍醐天皇、母:藤原鮮子 |
兄弟 | 勧子内親王、宣子内親王、恭子内親王、克明親王、保明親王、慶子内親王、代明親王、勤子内親王、婉子内親王、都子内親王、重明親王、常明親王、修子内親王、敏子内親王、式明親王、雅子内親王、有明親王、普子内親王、時明親王、長明親王、源高明、兼明親王、源兼子、靖子内親王、源厳子、源自明、韶子内親王、源允明、康子内親王、英子内親王、斉子内親王、朱雀天皇、章明親王、村上天皇、源為明、盛明親王 |
妻 | 藤原定方女 |
子 | 源重光、源保光、源延光、恵子女王、荘子女王、厳子女王、ほか |
経歴
編集延喜11年(911年)将観から代明に改名し、延喜19年(919年)元服した。醍醐朝末から朱雀朝前期にかけて、弾正尹・中務卿を務めた。
右大臣・藤原定方の娘と結婚して多くの子に恵まれたが、承平6年(936年)妻に先立たれる[3]。妻の死後しばらく子供達とともに定方邸に住み、忌明けして妻の妹・九の君へ求婚。しかし、九の君が年若い藤原師尹と文を交わしている事を聞き、落胆して子供達を定方邸に置いたまま自邸に戻ったという(『大和物語』)[4]。妻の後を追うように翌承平7年(937年)3月29日に薨去。享年34。最終官位は中務卿四品。
代明親王の邸宅は桃園親王と呼ばれた貞純親王の邸宅で、後に源保光(桃園中納言)、藤原師氏(桃園大納言)、藤原近信、藤原伊尹家へ渡る。その後、藤原行成(親王の曾孫にあたる)の邸宅となり、行成はその邸内に寺を建立した。これが世尊寺である。