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二天一流

日本の剣術流派・兵法

二天一流(にてんいちりゅう)は流祖・新免玄信(宮本武蔵)が、晩年に熊本市に位置する霊巌洞(れいがんどう)で完成させた兵法である。その理念は著書『五輪書』に著されている。二天流武蔵流などとも呼ばれた。現在も、山東派と野田派が伝承されている。[1]

二天一流
にてんいちりゅう
流祖・宮本武蔵像 下段の構
流祖・宮本武蔵像 下段の構
使用武器 日本刀 
発生国 日本の旗 日本
発生年 江戸時代 
創始者 宮本武蔵(藤原玄信)
源流 當理流
主要技術 剣術
伝承地 全国各地
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歴史

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宮本武蔵の父・新免無二(當理流関係の文献には宮本無二之助藤原一真・宮本無二斎藤原一真)は、實手二刀流などを含む當理流(肥後系の伝承)または無二流(筑前系の伝承)の使い手だったが、武蔵はそれを発展させ流名を円明流に改めたという。[要出典]晩年、伝えていた一刀、二刀、實手など多くの形を捨て、[要出典]右手に大太刀、左手に小太刀の二刀を用いる五つのおもて「五方」の五本にまとめ上げ、その兵法理念を『五輪書』に書き表した。『五輪書』では流名は二刀一流・二天一流の二つが用いられているが最終的には二天一流になったと考えられる。[要出典]後世には、二天流武蔵流の名も用いられている。[注釈 1]

武蔵晩年の弟子には細川家家老である松井寄之などがいるが、[要出典]武蔵死後、二天一流は、『五輪書』を相伝された寺尾孫之允勝信と、その弟で病床の武蔵の世話をしていた寺尾求馬助信行を中心に伝えられた。

武公伝』(細川家家老で八代城主松井家の二天一流師範が著した武蔵伝記。宝暦5年(1755年)豊田正脩編)には、「士水云、武公肥後にての門弟、太守初め、長岡式部寄之、澤村右衛門友好、其の外御家中御側外様及び陪臣軽士に至り、千余人なり」と書かれている。

寺尾孫之允の弟子には『五輪書』を相伝した浦上十兵衛(慶安4年・1651年)、柴任三左衛門(承応2年・1653年)、山本源介(寛文7年・1667年)、槙島甚介(寛文8年・1668年)がおり、『武公伝』は他に相伝の弟子として井上角兵衛、中山平右衛門、提沢兵衛永衛、この他弟子余多ありとしている。重臣の松井直之、山名十左衛門も高弟としている。

寺尾求馬助の四男である信盛は武蔵の再来と噂されるほどの技量で、父・求馬助から武蔵の後継者とされ、新免姓を継承し新免弁助信盛を名乗り今日まで伝わる二天一流の稽古体系を完成させた[4]。現在、山東派に伝承されている二刀合口の型の原型を加えたのは、新免弁助信盛である。しかし、寺尾求馬助の墓碑銘には二天流二代と刻まれており、新免弁助信盛を2代と数えるのは、志方半兵衛之経(寺尾求馬助の実子の寺尾藤次玄高の実子)が伯父や叔父や祖父の門弟たちの権威を否定するための伝説の創作という見解もある[5]

宝暦5年(1755年)に時習館 (熊本藩)が設立されると、武芸稽古所には東榭(とうしゃ)・西榭(せいしゃ)が設けられ、志方半兵衛之経は東榭の剣術師範のひとりとして、村上平内正勝は西榭の剣術師範のひとりとして登用され[6][7][8]、この二人が当時二天一流の代表的な師範として熊本藩に認知されていたことが分かる[9]

宝暦7年(1757年)に八代に文武稽古所を設立され、武芸所は教衛場と呼ばれた[10]。時期は不明だが、村上平内正勝の弟の村上正之が剣術の師範として登用され、村上正之の死後は弟子の豊田景英が教衛場の師範となった[11]

村上正勝・正之から相伝を受けた野田一渓種信は、寺尾藤次の弟子筋からも学び、志方・村上両師範家の教えを統合した。[要出典]

寺尾求馬助の五男である寺尾郷右衛門勝行は、兄である新免弁助信盛からも学び、道統は後に山東家に伝えられた。[要出典]

熊本における二天一流は、志方系と村上正勝系・正之系、村上家から別れた野田系の四つの新免信盛の流れを伝える師範家に加え、寺尾求馬助の六男の寺尾郷右衛門勝行からの系を伝える楊心流柔術師範家の山東家を加えた五師範家が藩に公認された。[要出典]

なお、寺尾孫之允の弟子筋の中には細川家の外に二天一流を伝えた者もいる。中でも柴任三左衛門実連は福岡藩黒田家家臣の吉田太郎右衛門に伝え、実連の弟子である立花峯均が武蔵の伝記『兵法大祖武州玄信公伝来』を著すなど福岡でも二天一流は盛んに行われた。[要出典]

さらに福岡藩の二天一流は江戸後期に丹羽信英によって越後に伝えられ、明治中期までは伝承された[12]

幕末から明治

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嘉永3年(1850)5月8日に、熊本時習館の師役の山東半兵衛の弟子宮崎政賢(宮崎長兵衛)が、師の子息で、後に熊本時習館の師役となる山東新十郎清武とともに全国開国修行に出立し、同年12月に帰藩した。廻国のルートは、讃岐の多度津・丸亀両家中を振り出しに、狼華の天真館、江戸では斎藤・千葉・伊庭の大道場の他に今治・津・柳河・館林・島原の諸家中、その後は佐倉、香取、土浦、笠間、水戸、棚倉、仙台、山形、会津、白河、宇都宮、壬生、古河、安中、小諸、上田、膳所を歴遊し、最後は高槻で畢っている。手合わせした相手のほとんどは、諸藩師家や著名な大道場の門人たちである。試合数は689名に及び、最も多い日は51名(水戸・神道無念流長尾理平太門人)を数えた[13][14]。この時の長兵衛の足跡は、この3年後の嘉永6年から安政元年にかけて佐賀藩士で二刀鉄人流師範の牟田高惇が藩命を受けて廻国修行した時のルート[15][16]と重なり合う部分が多い[14]

越後村上藩の師範役であった石黒又右衛門贇広は尊王攘夷論に賛成し、戊辰戦争中に、村上藩の奥羽越列藩同盟の加入に反対したが容れられず、村上藩は慶応4年/明治元年(1868)5月6日に加盟。石黒も従軍を命じられたが戦意はなく、明治維新後に隠遁。[17]

明治3年(1870)に熊本時習館は廃止されたが、剣術師家17家中、最大の5家を占めたのは二天一流と新陰流疋田景兼の系統の新陰流)であった[18]

廃藩置県後の明治5年(1872)、熊本県の山東新十郎清武は、加茂川村加惠荒目鶴に道場を開設し、二天一流や揚心流(楊心流)柔術を教授した。門弟の数は6,000名で明治6年から7年にかけて隆盛したが、明治10年に閉場した[19]

1877年(明治10年)の西南戦争の折り、山東山東新十郎清武は熊本隊十六番隊長として西郷軍に加担。清武長男は田原坂の戦闘で戦死。宮崎長兵衛の長男八郎は協同隊総参謀として西郷軍に加担し、八代で戦死。[20]

西南戦争後に武道を見直す機運が高まり、明治15年(1882)熊本県にて振武會が設立され、山東新十郎清武は創立委員のひとりであった[21]。明治30年(1897)武徳会熊本支部の設立に伴い、振武會は解散[22]

大正以降

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昭和6年11月、昭和天皇の熊本に行幸。11月18日に肥後武道の演武は天覧の栄に浴した。二天一流の演武者は打太刀を野田長三郎が、(系譜野田辰三郎と氏名が異なるが、大浦 辰男『宮本武蔵の真髄―五輪書と二天一流の極意』マネジメント社、1989年10月1日の本文と系譜も異なっている)仕太刀を志水三郎が務めた。[23][24][24]

現在の伝承状況

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現在、山東派と野田派が伝承されている[25]

二天一流の本質に関する現在の師範の考え方

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片手剣法であるという考え方[26]、二刀をフルに活用できるように鍛錬・稽古するという考え方[27][28]、両手で扱う一刀太刀勢法こそ宮本武蔵が実戦で使った技を集大成したもので二天一流の神髄であるという考え方[29]の3つの考え方がある。

系譜

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特に出典がないところは、魚住孝至『日本人の道 宮本武蔵』ぺりかん社、2002年12月20日、424-427頁をもとに作成したが、明らかに誤りがあるところは出典を明記して訂正する。

流儀歌

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乾坤(けんこん)を其侭(そのまま)庭に見る時は、我は天地の外にこそ住め

[186][187]

脚注

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注釈

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  1. ^ 具体例として、寺尾求馬助信行の三角半島にある墓には二天流とあり[2]、浅井新右衛門栄広の弟子たちが、自流の文献に『戦機二天流』『武蔵流修行心得之事』と名づけた。[3]
  2. ^ 『兵道経』二十八箇条 落合忠右衛門宛 慶長10年(1605年)、『兵道経』上二十ニ箇条 下十四箇条 年代不詳[30][31]、『円明三十五箇条』の原本になった『兵法三十五箇条』年代不詳[32]、『兵法書付』14箇条、寛永15年(1638年)11月[33]、『兵法三十五箇条』熊本藩主 細川忠利宛、寛永18年(1641年)2月[34]、『五方之太刀道』寛永18年(1641年)3月、『五輪書』寛永20年(1643年)寺尾孫之允宛[35]、『独行道』正保2年(1645年)5月12日[36]
  3. ^ 1613-1672[37][38]。宮本武蔵から『五輪書』を相伝。『「五輪書」相伝奥書』慶安4年(1652年)、/承応2年(1652年)/寛文8年(1668年)、『五輪書』地の巻「道をおこなふ法」9箇条の解説である『兵法行道口訣九箇條』[39]
  4. ^ 1626[40]-1710[41]豊前国において細川藩士五人扶持十五国の本庄喜助の二男に生まれる(本庄家下家系譜)、寛永9年(1632年)6月主家細川家に従い本庄家も熊本入り。寛永17年(1640年)宮本武蔵が熊本に来たりて、本庄熊介も武蔵門弟となる(圓明流系図)。寛永18年(1641年)主君の細川忠利が崩御し、父喜助殉死。熊介は本庄家の家督を相続、この年本庄に改姓。正保4年(1647年)寺尾孫之允に随仕して兵法修行に務める(武州傳来記)。承応2年(1653年)寺尾孫之允より二天一流の免許を受け、五輪書相伝(「五輪書」吉田家本)。承応3年(1654年)m細川家を到仕し肥後離国(武州傳来記、本庄家系譜)。江戸の旗本やしいで大勢の弟子を指導する(武州傳来記)。万治3年(1660年)8月福岡家老黒田(立花)重種が取り持ち、黒田光之に300石で仕官する(武州傳来記、本庄家系譜)。黒田重種以下諸仕陪臣にかけ大勢の門弟に二天一流を指南する(武州傳来記)。その後黒田家を到仕(武州傳来記、本庄家系譜)。大和郡山藩本多内記政勝に400石で仕官する(武州傳来記、本庄家系譜、大和郡山本多家分限帳)。寛文11年(1671年)本多内記政勝没し、医療は分割され、柴任は内記の嫡子、出雲守政利に400石で仕える。寛文7年より後、本田出雲守家を到仕。近江大津に浪人する(武州傳来記)。姫路藩本多中務大輔政武に家老梶金平の取り持ちにて500石で仕官(武州傳来記、本庄家系譜)元禄11年(1698年)より後、家老梶金平が本多家を離れるにあたり、柴任も到仕。明石に隠棲(武州傳来記、本庄家系譜)。主君を複数回変え、その都度禄高を上げた。[42]
  5. ^ 相伝の後、8年間遠島になる。赦免後も城下に住むことは許されなかった。要出典『兵法大祖武州玄信公伝来』享保12年(1727年)[43]
  6. ^ 後を継ぐ者なく、断絶[50]
  7. ^ (1766~1817)。吉田太郎右衛門実連の本家筋に当たり、立花種貫から二天一流の教えを受け、立花種貫の死後は白水重能からも学んだが、白水重能後が病に倒れた後、立花増昆から相伝を受ける。このとき立花増昆が、吉田家が所蔵していた柴任美矩が吉田実連に与えた吉田家本五輪書の空之巻巻末に相伝証文を継ぎ足して、それを吉田経年に返した。[54]
  8. ^ 立花増寿の息子で、立花種貫の弟で、白水家へ養子に出た人らしい。[56]
  9. ^ 丹羽五兵衛信英。1727[59]-1791[60]。筑前福岡城下にて[61]、知行1,300石の中老桐山作兵衛丹英の三男として誕生[62]。享保14(1729)年、父桐山丹英失脚し、知行召上げ。享保18(1733)年兄桐山丹誠へ新知500石。元文5(1740)年、父桐山丹英卒。それまで兄桐山丹誠とともに父から二天一流を学んでいたが、父の遺言でそれ以降は、立花増寿に入門[62]。延享元(1744)年、武蔵百回忌に小倉手向山参詣。寛延元(1748)年、丹羽理右衛門家養子となる。[61]宝暦元(1751)年、宝蔵院流槍術免許。明和6(1767)年、二天一流を相伝。この冬江戸にて主君に諫言の後、出奔[63][61]。越後の富岡村で行き倒れになっているところを発見され、紫雲寺郷片桐新田の関川助市家に寄寓し、終生そこで暮らす。[64]『兵法大祖武州玄信公伝来』を元に『兵法先師伝記』を著す[65]
  10. ^ 片桐新田の隣の高島新田の庄屋。[66]丹羽信英門人髄一[67][66]
  11. ^ 紫雲寺郷片桐新田の庄屋。師匠の丹羽五兵衛信英は終生関川助市家に暮らした。[68][69]
  12. ^ 1752-1804。越後村上内藤家家臣。寛政3(1790)年、丹羽信英から入門後1年という短期間で一流相伝。[71]
  13. ^ 越後村上藩二天一流師範役。平井家に生まれ、石黒直記の養子となり、二天一流を学び藩の師範役となる。幕末の尊王攘夷論に賛成し、奥羽越列藩同盟の加入に反対したが容れられず、村上藩は慶応4年/明治元年(1868)5月6日に加盟。石黒も従軍を命じられたが戦意はなく、明治維新後に隠遁。晩年はキリスト教を信じ、活動した。[17]>
  14. ^ 越後椎谷堀家家臣[72]
  15. ^ 越後椎谷堀家家臣[72]
  16. ^ 1758-1824。上今泉村の庄屋。[74][75]
  17. ^ 渡部六右衛門信行の嫡男。上今泉村の庄屋で、医師。[75]
  18. ^ 越後三日市柳沢家家臣で、江戸屋敷に奉公。渡部六右衛門信行・渡部六右衛門安信父子から学び、渡部六右衛門安信から相伝を得る[76]
  19. ^ 越後黒川柳沢家家臣[77]
  20. ^ 柴橋村(現在の新潟県胎内市柴橋)の庄屋。柴橋村は桑名松平領であった。大沼重蔵の兄[78]
  21. ^ 柴橋村(現在の新潟県胎内市柴橋)の庄屋大沼紋司美正の弟。[78]
  22. ^ 関妻村(現在の新潟県新発田市関妻)の庄屋[77]
  23. ^ 加治村(現在の新潟県加治川村の一部)の庄屋で、上館(新潟県新発田市上館)に陣屋のあった越後三日市柳沢家の役人を勤めたようである[77]
  24. ^ -明治5(1872)年。川口村(現在の新潟県長岡市の一部)の庄屋。[77]
  25. ^ 越後新発田溝口家家臣[72]
  26. ^ -1740。知行1,300石の中老[62]。師匠の実家の立花家の復権に尽力するが[83]、享保14(1729)年、失脚し、知行召上げ。享保18(1733)年嫡子桐山丹誠へ新知500石。元文5(1740)年、卒。子息桐山丹誠と丹羽信英に二天一流を指導していたが、遺言で以降は立花増寿に入門するように命じる[62]
  27. ^ 1638~1692[86]熊本藩家老一座八代城主3万石。『兵法二十七箇条』元禄3年(1690年)ころ、『二天流兵法書註解』元禄3年以前成立、享保6年写の原著者。[87]
  28. ^ 1621-1688[88]。宮本武蔵より『兵法三十五箇条』相伝[89]なお、[90][91]。圓明流系図によると、寺尾求馬助は寺尾孫之允の弟子になっている。[92][93]『兵法三十九箇条』相伝奥書 寛文6年(1666年)/同7年、『五方技解』(「五方之太刀道」訓点)。[87]寛永十三年(1636)に十六歳で元服、知行二百石拝領。有馬陣(島原役)で戦功あり。寛永十六年(1639)鉄炮十挺頭、藩主細川綱利の代になって、寛文七年(1667)鉄炮二十挺頭、同十一年(1671)加増百石で、都合三百石、延宝七年(1679)鉄炮三十拾挺頭、貞享五年(1688)隠居せずに病死。嫡男の佐助信形が、家督を相続した。[94][95]寺尾求馬之助は藩主細川綱利に指南したが、寺尾求馬之助死後、細川綱利は柳生流を稽古した[96][97]
  29. ^ 『二天一流兵法書序鈔』宝永4年(1707年)、『兵法口義』正徳元年(1711年)を著す[98]
  30. ^ 宮本武蔵の伝記『武公伝』18世紀初期を著す。[99]
  31. ^ 『師談抄』 安永9年(1780年)を著す。[100]。また豊田正脩の『武公伝』を元に、宮本武蔵の伝記『二天記』安永5年(1776年)を著す。[101]
  32. ^ 1666-1701[102]。武蔵の再来と称され、現代に続く指導体系の基礎を固める。「二天一流合口伝来」を行う。[4]『五法刀構』元禄13年(1700年)を著す。[87]
  33. ^ -1739[103]。石高200石で、後にお召し放ちになり、浪人。[104]『二天記』に末尾に付された友成正信の奥書 天保十五年(1844年)よると、武名を上げるために、師匠である新免弁助信盛を殺害しようとして失敗し、破門される。また藩内の不行跡により知行を召し上げられ、浪人となる。糊口を凌ぐため、近隣の者に指導を始めるが、新免弁助信盛は二天一流を名乗ることを禁止し、足遣いを変更させ、村上流として指南することを許す[105][106]。熊本藩に届け出た村上正勝系の二天一流の道統には名前が記載されない。[107]享保8年(1723)に『故村上平内源正雄兵法之書之事』を記したとされる。[108]なお、「新免武藏守藤原玄信三代之門弟」とあるし、安永二年(1773)歿の村上平内正勝の墓にも同様に「新免武藏守藤原玄信四代之門弟」と銘記されている。この三代・四代という数え方は、いづれも「武蔵二代」新免弁助を経由していることを示す。もし村上平内正雄が実際に新免弁助から破門されておれば、こんな墓碑銘はありえないという見解もある[109]
  34. ^ -1773[103]。村上平内正雄の長子。宝暦5年(1755年)1月に熊本藩より兵法指南役を仰せつけられ、二天一流の流名に復する。たいへんな人格者であった。[110]延享元年(1744)武芸上覧のさい、門弟を引き連れて出て、褒美に金子二百疋。宝暦五年(1755)二月、浪人のまま時習館西榭での武蔵流師役を任じられ、役料に五人扶持を与えられた。その後、宝暦六年に二十俵加増、宝暦八年十俵加増。[111]
  35. ^ 流儀退伝。[114]
  36. ^ -1788[103]。『村上伝兵法口義』安永5年(1776年)を著す。[100]兄村上正勝の出仕後、別格師範として藩士たちに指南。[115]別格師範の記述の初出は、『全国諸藩剣豪人名事典』だが[116]、具体的な内容は分からない。豊田氏先祖附追加(豊田氏先祖附の記事)によると、豊田景英が、安永三年(1774年)、二天一流の師範・村上八郎右衛門の代見(師範代)を命じられ、毎年役料を受けるようになったとあるため、八代の教衛場の師範であったことが確実である。[117]
  37. ^ 時習館の師役を拝命し、二十石五人扶持。[118]
  38. ^ -1802[103]。『二天流兵法秘伝集』他5巻 明和2年(1765年)~安永7年(1778年)を著す。[120]。村上派・寺尾派の奥義を極めた後、両派の違いに悩み研鑽し、明和6年(1769年)二天一流別派 野田派二天一流と名乗る。[121]
  39. ^ -1808[103]
  40. ^ 野田三郎吉種秀にも師事した[122]
  41. ^ 昭和天皇の御前で演武[122]
  42. ^ 『宮本武蔵・二天一流の世界 』土屋書店 1984年9月1日 を著す。著作では、写真と文章を使って、技法を説明。
  43. ^ 第19代師範。1929-2000[123]。志岐太一郎からも学ぶ。『宮本武蔵の真髄―五輪書と二天一流の極意』マネジメント社 1989年10月1日 を著す。著作のなかで、図解と写真と伝書を駆使して技法を紹介。また山東系の宮川泰孝や今井正之と交流があったこと、宮川泰孝の山東系の宗家継承についても言及。お優しいお人柄であったと考えらえる。熊本市で医療法人を経営し、1989年から7年間日本ソフトボール協会会長を務め、ソフトボールの五輪競技採用に尽力。長女の大浦敬子[124]が、『超訳「五輪書」 強運に選ばれる人になる』海辺の出版社 2023/5/1を著す。
  44. ^ 第21代師範。『趣味どきっ! 刀剣Lovers探究 八の剣 二天一流(野田派二天一流)』NHK 2023/11/22(水) 午後9:30-午後9:55放送に出演。
  45. ^ 1650-1731。寺尾求馬之助の息子。[127][128]。新免弁助信森の死後、正徳二年(1712)藩主細川綱利が死んで、甥の宣紀が家督相続。この藩主細川宣紀が、寺尾藤次を兵法師範役として五人扶持十五石で召出し、度々御前で兵法を相勤めるようになった[96][129]
  46. ^ 『太田先生著述之兵法書』寛延3年(1750年)を著す。[130]
  47. ^ 寺尾求馬助の三男の玄高の息子。求馬助の相伝奥書を踏まえて書いた短い伝記である『二天一流相伝記』寛保2年(1742年)を著す。[132]寺尾藤次の嫡子だったが、知行200石の志方家に養子に入る[133]。叔父の弁助に一流相伝を受け、元禄十四年(1701)弁助が四十五歳で病死して以後、実父の藤次に再伝を得た[134][135]。宝暦5年(1755年)に時習館 (熊本藩)が設立され、武芸稽古所として東榭(とうしゃ)・西榭(せいしゃ)が設けられると、志方半兵衛は東榭の剣術師範のひとりとして、任用された[7][136]
  48. ^ 熊本藩二天流兵法師範志方半兵衛の5男新免弁之助は,廻国修行を藩に申し出たが許可されず、宝暦11(1761)年7月出奔し、廻国修行に出た。翌12年4月帰藩した際蟄居を申し付けられたが、13年8月に「連々剣術心懸,抜群之者付」という理由で赦されている。[137]
  49. ^ 剣理についても造詣が深く、弟子たちが『兵法心気体覚書』『戦機二天流』『武蔵流修行心得之事』『二刀一流極意条々』を著す。[140]
  50. ^ 谷口覓『史料考證 勧進・宮本武蔵玄信』1995年11月1日、116頁では関孫之丞。
  51. ^ 後を継ぐ者なく、断絶[141]
  52. ^ 兄新免弁助信盛からも学ぶ。要出典
  53. ^ 1713-1747。号は如雪。二天一流師範。揚心流柔術師範。[142]女敵討ちの返り討ちにあった儒者水足屏山父子を殺めた下手人を父喜左衛門らとともに討ち取る。[143][144][145][146]
  54. ^ 楊心流柔術師範でもあった。要出典
  55. ^ 文政7年(1824年)[147]-1909年[148]。父につき修行。兄弟弟子の宮崎長兵衛とともに江戸に武者修行する。西南戦争で長子を失う。明治35年(1902年)に京都聖護院で開催された大日本武徳会の演武会に出場。弟子で京大総長の木下広次が打太刀を務める。[149][150]
  56. ^ 1885-1969[151]。武蔵木刀・鉄扇相伝。1908年[151]、兵法二天一流宗家師範許状。関口流抜刀術第14代宗家。[152]1886-1969[151]号を鉄心。昭和30年代(1955-1964年)以降型を手直しし、教える時期によって技を改変した。[153]講述が門人の馬場清房藤政により『兵法二天一流太刀勢法解説書』として編集され、1960年に完成。[154]1967年、宇佐神宮に二天一流を相伝する「誠心直通之碑」が立てられ、清長忠直政実に宗家を譲る。[155]しかし、その後大分県日田の宮川泰孝にも宗家を譲った。[156]1966年8月25日に宮川泰孝により墓所として不絶塚僻が建立された。[157][156]
  57. ^ 1908-1977。[158]第9代師範。細川家伝統兵法二天一流と名乗る。二天一流免許皆伝。宗家師範代見。[152]青木規久男が手直しする前の「五法之勢法」と「勢法二刀合口」という二刀下段からなる14本の型を伝承。[159]二天一流鍛錬会会長。[158]船曳芳夫・大坪指方との共著『新・宮本武蔵考』岡山県大原町宮本武蔵顕彰会 1977年12月17日にて、二天一流鍛錬会の稽古体系の概要を説明。写真や具体的な手順の記載はなし。[160]
  58. ^ 第10代師範。『細川家伝統 兵法二天一流 宮川伊三郎派』2016年を監修。
  59. ^ 第11代師範。『宮本武蔵伝説―最強剣士・宮本武蔵の激闘人生を検証! (別冊宝島 574) ムック 』宝島社 2001年12月で、二天一流の型を解説。『宮本武蔵伝説 (宝島社文庫)』宝島社 2001年4月1日で、二天一流の型を解説。『宮本武蔵 実戦・二天一流兵法「二天一流兵法書」に学ぶ』文芸社 2002年10月15日、『新編真訳 五輪書 兵法二天一流真諦』文芸社 2007年11月15日を著す。2005年2月18日にNHK福岡発地域ドラマ「我こそサムライ!」に協力。劇中の太宰府にいる二天一流の継承者・君原誠心(小川正)のモデルとなる。DVD『天下無双人 武蔵になる。兵法二天一流 極意指南 勢法二刀合口編』BAB 2004年1月1日にて型の指導と解説。[165][166]
  60. ^ 二天一流免許皆伝。[152]
  61. ^ 第9代宗家。1967年、宇佐神宮に二天一流を相伝する「誠心直通之碑」が立てられ、青木規矩男から相伝を受け、第九代宗家となる。[155]
  62. ^ 第10代宗家を1976年11月21日に継承。1956年7月、青木規矩男に入門。1967年1月、清長忠直に師事。『宮本武蔵 独行道 二天一流勢法』1987年12月4日を著す。[170]2003年NHK大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』が放送され、武蔵ブームに火がついた最中、岩見利男、清長文哉、青木規矩男ゆかりの台湾の弟子の3人に相伝を発表。[155]台湾の弟子は陳信寰(チンシンホヮン)である。[171]
  63. ^ 1948-。福岡県生まれ。第11代宗家。1979年に宮本伊織第十三世・宮本信男の紹介で、兵法二天一流正統第十代宗家の今井正之に入門。2000年に北九州市小倉南区の自宅に道場「獨行庵」を開設。2001年に免許皆伝、2003年に兵法二天一流第十一代を継承。日本各地はもとよりアメリカ、フランス、スペイン、カナダ、メキシコなど世界各地で日本武道の普及や紹介のため、セミナーを開催している。[174]2006年当時、小倉南区消防署に勤務。合田周平との共著『こころの潜在力 宮本武蔵と中村天風』PHP研究所 2006年9月22日。
  64. ^ 第11代宗家。
  65. ^ 1948[155]-2020.01.04[178]。大分県宇佐市出身。第12代宗家。居合道教士七段、剣道四段(2007年当時)。実父五所元治から関口流居合術、兵法二天一流を学ぶ。1994年、関口流居合術免許皆伝。1998年、兵法二天一流免許皆伝。清長文哉の死を受けて、宇佐市剣道連盟が清長忠直夫人や今井正之や清長文哉の門人たちと話し合い、2007年吉用清を兵法二天一流正統十二代に推戴した。[155]DVD『古流 関口流 実戦居合道』2013年7月 株式会社ヘルツをリリース。
  66. ^ 第11代宗家。台湾剣道連盟会長。2011年に東日本大震災が発生すると、台湾で開催している国際都市剣道交流大会において、被災地に対する支援を訴え、寄付を募った。[171]
  67. ^ 第二次世界大戦からの復員後、清長忠直の紹介で、青木規矩男に師事。清長忠直が後継者を定めずに亡くなった後、二天一流の次の宗家にという話もあったが、多忙で断り、弟弟子の今井正之が宗家を継ぐ。剣道の降盛とは衷腹に古武道への無関心さを不安に思い、兵法二天一流の小冊子を作成。[155] また月刊『剣道日本』にて1986年4月号から1987年3月号にかけて、詳解・居合道 関口流を連載。 。
  68. ^ 1953-[180]。五所元治から剣道、関口流居合術、二天一流を学ぶ。1991年全日本居合道大会五段の部の県代表で初出場3位、1992年2位。1995年六段の部で2位、居合道教士七段、剣道四段(2007年9月当時)。[181]正統兵法二天一流第十二代宗家代見、兵法二天一流 免許皆伝、関口流抜刀術 免許皆伝、全日本剣道連盟 居合道 教士七段[182]
  69. ^ 第9代宗家。円明之木太刀相伝。不絶塚僻建立昭和41年8月25日。[157]野田派二天一流の大浦辰男が昭和53年7月30日に宮川泰孝にお会いになり、青木規矩男から宮川泰孝と清長忠直が山東派の第9代を継承したという話や、宮川泰孝が恩師の青木規矩男の墓所を整備した話を聞いた。昭和60年(1985年)2月11日に、清長忠直の弟子の今井正之にお会いになりお話しされて、大分の(日田の宮川泰孝)に山東派の宗家が継承されたのはご存知だった。その時点で、青木規矩男の墓所を宮川泰孝が整備されたのは知らなかった。[156]
  70. ^ 昭和60年(1985年)に古武道功労者表彰を受けた。
  71. ^ 第10代宗家。『五輪書』編集兼発行人 宮川 護人 編集協力 関西図書出版 1982年8月8日発行
  72. ^ 二天一流免許皆伝。宗家師範代見。関口流抜刀術第15代宗家。[152]
  73. ^ 二天一流免許皆伝。宗家師範代見。青木規久男の講述を『兵法二天一流太刀勢法解説書』として編集し、1960年に完成。[154]

出典

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関連項目

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