丹波敬三
日本の薬学者(1854−1927)
丹波 敬三(たんば けいぞう、1854年2月25日(嘉永7年1月28日) - 1927年(昭和2年)10月19日)は、明治・大正期の薬学者。摂津国八部郡走水村(現・兵庫県神戸市)出身。蘭方医・丹波元礼の三男。丹波直次、丹波哲郎、丹波明の祖父。丹波義隆の曾祖父。先祖は丹波康頼(丹波氏)。そして直系である丹波家がその末裔。姪の子に大野龍太。
経歴
編集東京大学製薬学科(現在の薬学部)第一期の卒業生で、ドイツのエアランゲン大学に自費留学して衛生学・裁判化学を学ぶ[1]。1887年(明治20年)に帰国後、改組されて東京帝国大学医科大学薬学科となった母校の教授となり、梅毒治療薬「サルバルサン」を研究し、これを国産化。「タンバルサン」と命名し、国内で販売すると共に、薬事法の概要の制定に携わる[2]など、日本の近代薬学の基礎を築いた。1912年(明治45年)、第5代日本薬剤師会会長となる。1917年(大正6年)、東京薬学専門学校(現在の東京薬科大学)校長となり、同年勲一等瑞宝章受章。1927年(昭和2年)に死去し、多磨霊園に葬られる。
日本における裁判化学の草分けでもあり、帰国後東京帝国大学で裁判化学を教えたほか、野口男三郎事件では被害者の内臓の毒物を調べ、裁判化学の有効性を証明した[3][4]。
栄典
編集- 1881年(明治14年)8月 - 正七位
- 1892年(明治25年)2月29日 - 従六位[5]
- 1896年(明治29年)3月30日 - 正六位[6]
- 1897年(明治30年)5月20日 - 褒状
- 1897年(明治30年)6月26日 - 勲六等瑞宝章[7]
- 1898年(明治31年)4月30日 - 従五位[8]
- 1898年(明治31年)9月10日 - 正五位[9]
- 1899年(明治32年)6月20日 - 勲五等瑞宝章[10]
- 1899年(明治32年)9月18日 - 木杯一個
- 1900年(明治33年)12月20日 - 勲四等瑞宝章[11]
- 1903年(明治36年)4月10日 - 従四位[12]
- 1903年(明治36年)12月26日 - 勲三等瑞宝章[13]
- 1906年(明治39年)12月27日 - 金杯一組
- 1908年(明治41年)6月20日 - 正四位[14]
- 1910年(明治43年)12月26日 - 勲二等瑞宝章[15]
- 1913年(大正2年)8月11日 - 従三位[16]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章
- 1917年(大正6年)12月24日 - 勲一等瑞宝章[17]
- 1918年(大正7年)2月12日 - 正三位[18]
脚注
編集- ^ 1884年(明治17年)の留学生のメンバーは森林太郎、片山国嘉、丹波敬三、長與稱吉、田中正平、宮崎道三郎、隈川宗雄、萩原三圭、穂積八束、飯盛挺造、の10名、鴎外がこの10名を日東十客ノ歌を書いている。(鴎外留学始末、1999年、5項)
- ^ 実際にこの法が施行されたのは1960年(昭和35年)からである。
- ^ 丹波敬三, 石津利作, 「野口男三郎強盗殺人官印僞造行使並ニ各謀殺被告事件被害者野口一太郎死因鑑定書」『藥學雜誌』 (289), 255-267, 1906-03-26, NAID 110003664364。
- ^ NHK総合「ファミリーヒストリー 丹波義隆 ~父・哲郎の素顔 1000年を超える歴史~」2015年9月4日放送
- ^ 『官報』第2597号、「叙任及辞令」1892年3月1日。
- ^ 『官報』第3824号、「叙任及辞令」1896年4月1日。
- ^ 『官報』第4196号、「叙任及辞令」1897年6月29日。
- ^ 『官報』第4448号、「叙任及辞令」1898年5月2日。
- ^ 『官報』第4562号、「叙任及辞令」1898年9月12日。
- ^ 『官報』第4792号、「叙任及辞令」1899年6月23日。
- ^ 『官報』第5243号、「叙任及辞令」1900年12月21日。
- ^ 『官報』第5929号、「叙任及辞令」1903年4月11日。
- ^ 『官報』第6148号、「叙任及辞令」1903年12月28日。
- ^ 『官報』第7495号、「叙任及辞令」1908年6月22日。
- ^ 『官報』第8257号、「叙任及辞令」1910年12月28日。
- ^ 『官報』第311号、「叙任及辞令」1913年8月12日。
- ^ 『官報』第1620号、「叙任及辞令」1917年12月25日。
- ^ 『官報』第1657号、「叙任及辞令」1918年2月13日。
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