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中野方村

日本の岐阜県恵那郡にあった村

中野方村(なかのほうむら)は、かつて岐阜県恵那郡にあったである。現在の恵那市北部にあたる。

なかのほうむら
中野方村
廃止日 1954年4月1日
廃止理由 新設合併
大井町長島町東野村三郷村武並村笠置村中野方村飯地村恵那市
現在の自治体 恵那市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 中部地方東海地方
都道府県 岐阜県
恵那郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
面積 23.94 km2.
総人口 2,913
(1954年)
隣接自治体 恵那郡飯地村蛭川村笠置村加茂郡蘇原村福地村潮南村
中野方村役場
所在地 岐阜県恵那郡中野方村西中切1769-1
座標 北緯35度31分17秒 東経137度18分25秒 / 北緯35.52128度 東経137.30689度 / 35.52128; 137.30689座標: 北緯35度31分17秒 東経137度18分25秒 / 北緯35.52128度 東経137.30689度 / 35.52128; 137.30689
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村の中央を中野方川木曽川支流)が流れ、周りは標高約800mの山に囲まれている農村[1]、山村地帯であった。

大字・字

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  • 大字:無し
  • :糟里、井尻、飯澤、鷹の巣、上勢井後、下勢井後、太田、橋立、坂折、霧山、日蔭山、山名、大曲、權現、岩竹、西久保、はまゐば、橋戸、野瀬、萬葉、川向、新畑、起、西の垣外、五十目、西中切、東中切、中島、龍部坂、向山、八幡、山際、霊仙寺、観定寺、富貴窪、城ヶ根、奥洞、口洞、道場、横枕、島、大日、新賦、大峯、五輪、皆曾、合歓の木、桃久保、鐘鑄場、馬越、力石、笹葉、高峯、伐跡、松林、宇塚、荷付場、外山、赤ぬた、亀垂、毘羅

歴史

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  • 平安時代は蘇原荘に属していた。
  • 元弘3年/正慶2年(1333年六波羅探題北条仲時北条時益の残党が、中野方村に潜入し、当時存在した心観寺に立て籠り土岐氏の代官所に乱入したため、村民が土岐氏の代官と共に追い払ったが、仲時と時益の残党が心観寺に火を放って去ったために大伽藍が焼失したと伝わる。
  • 建武2年(1335年)当時中野方村に存在した心観寺の梵鐘に「建武二乙亥年二月大檀那領主加藤左衛門尉景村、美濃國蘇原荘安弘見郷中之方氏子安全」とあったという(安弘見傳記)。これは元弘年間に北条氏の残党によって心観寺を焼かれたが再興の際に鋳造したものであろう。
  • 天文11年( 1542年)景前と延友遠山氏の延友新右衛門尉が笠木社に梵鐘を寄進した。その鐘銘に『濃州加茂郡笠木山大権現新寄進 本願 延友新右衛門尉 藤原景延 願主 遠山左衛門尉 藤原景前 天文十一稔 寅壬 十一月念日』とあり、藤原景前とは遠山景前のことで、笠木社とは、現在の中野方町にある笠置神社のことである。延友遠山氏は笠置神社周辺を領地としていた遠山氏の一族と思われる。すなわち当時の中野方村は加茂郡に属していたことが分かる。
  • 江戸時代苗木藩領。
  • 1870年明治3年)に苗木藩が廃仏毀釈を実行し領内の全ての寺院が廃される。中野方村では、心観寺が廃された。
  • 1889年(明治22年)7月1日 - 町村制により中野方村が成立。
  • 1954年(昭和29年)4月1日 - 恵那郡大井町長島町東野村三郷村武並村笠置村飯地村と合併し恵那市となる。

学校

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神社・仏閣

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脚注

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  1. ^ 現在も棚田が多くあり、日本の棚田百選(坂折棚田)に指定されている。

関連項目

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