[go: up one dir, main page]

クリミア・ハン国

1783年までクリミア半島に存在した国家
クリミア・ハン国
قريم يورتى  (オスマントルコ語)
قرم خانلغى  (クリミア・タタール語)
ジョチ・ウルス
テオドロ公国
1441年 - 1783年 ロシア帝国
タヴリダ県
クリミア・ハン国の国旗 クリミア・ハン国の国章
(国旗) (国章)
クリミア・ハン国の位置
1600年ごろのクリミア・ハン国の版図
南にオスマン帝国、北にモスクワ大公国
ポーランドが位置する
公用語 キプチャク語群クリミア・タタール語ノガイ語など)
オスマン語
首都 バフチサライ
ハーン
1441年 - 1466年 ハージー1世ギレイ英語版
1469年/1478年 - 1475年/1515年メングリ1世ギレイ
変遷
建国 1441年
オスマン帝国へ従属
諸侯
1478年
キュチュク・カイナルジ条約、オスマン従属の終焉1774年
ロシアへの併合1783年
現在モルドバの旗 モルドバ
ロシアの旗 ロシア
 ウクライナ

クリミア・ハン国(クリミア・ハンこく、クリム・ハン国とも。クリミア・タタール語: قرم خانلغى, ラテン文字転写: Qırım Hanlığı, キリル文字転写: Къырым Ханлыгъы, ウクライナ語: Кримське ханство, ロシア語: Крымское ханство1441年頃 - 1783年)は、ジョチ・ウルスの後継国家のひとつで、クリミア半島を中心に存在した国家。首都バフチサライ

クリミア・ハン国の支配下で、クリミア半島にはテュルク諸語の一種を話すムスリム(イスラム教徒)の住民が多く居住するようになった。彼らの子孫が、現在クリミアで少数民族となっているクリミア・タタール人である。

歴史

編集

前史

編集

クリミア・ハン国は15世紀中頃に、クリミア半島にいたチンギス・ハーン後裔の王族、ハージー1世ギレイ英語版によって建国された。 ペルシア語テュルク語などで編纂された16世紀前後の系譜資料によれば、ハージー・ギレイの先祖は、チンギス・ハーンの長男ジョチの13男であるトカ・テムルに遡る。『集史』などのほぼ同時代の情報によれば、トカ・テムルはジョチ・ウルスの東部を統括していた兄オルダのもとにいたとみられるが、その子孫の一派はクリミアにいたらしく、13世紀後半にモンケ・テムル・ハンによってクリミア半島の支配権を認められたと伝承されている。

明らかな歴史では、クリミアは1238年モンゴル帝国バトゥの遠征軍によって最終的に征服され(モンゴルのルーシ侵攻)、ジョチ・ウルスの元では右翼の一派として、ソルハット(現スタールイ・クリム)を中心として、ジョチ・ウルスに属するテュルク・モンゴル系の集団(のちにタタールと呼ばれる人々)の主要な居住地のひとつとなった。14世紀後半、バトゥ家および東方のオルダ家の断絶にともなってジョチ・ウルスが混乱すると、特に右翼ではハンを称する者が乱立し、クリミアは次第にジョチ・ウルスの中心都市サライを支配するハンから自立するようになった。

貨幣史料からは、バシ・テムル: Bash Timurまたは: Tash Timur)なる人物が、クリミアで自らの名を刻んだ貨幣を鋳造していたことが明らかになっている。1394年から1395年にかけて、ティムール朝およびシャイバーニー朝で編纂された系譜史料によれば、彼はこの頃のサライのハンであったトクタミシュ再従兄弟であり、かつのちにサライのハンを経てカザン・ハン国を建国したウルグ・ムハンマドの叔父にあたるとされる。いずれにせよ、イスラム社会では、貨幣に自らの名を刻むことは主権の宣言を意味し、この頃クリミアのタタールがサライのハンから相当程度独立していたことがわかる。

建国期

編集

1430年前後のジョチ・ウルスのハン位をめぐる激しい内乱の後、バシ・テムルの子[1]でクリミアにいたハージー1世ギレイ英語版は、リトアニア大公国の支持を受けて自立をはかり、1441年頃、クリミアにおいてハン位を自称、独立を宣言した。一般に、これをもってクリミア・ハン国の成立とみなされている。 ハージー・ギレイの死後、クリミアではハンの位を巡ってハージー・ギレイの息子たちの間で内紛が起こり、1475年オスマン帝国の介入を受けた。オスマン帝国は、ジェノヴァが保有していたクリミア半島南岸の諸港湾都市を奪って自領に編入するとともに、内陸部から半島以北を支配するクリミア・ハン国を従属国とした。

一方、オスマン帝国の支持を得て1478年にハンの座を最終的に確保したハージー・ギレイの六男メングリ1世ギレイは、オスマン帝国の保護下で勢力を蓄え、1502年にはサライを攻略、分裂後のジョチ・ウルスにおいて正統政権と目される大オルダ(ウルグ・オルダ)を滅ぼし、大オルダの併合がこの政権にジョチ・ウルスの正統な後継者としての権威をもたらした。これにより、黒海北岸をドニエプル川下流域から北カフカスの一部まで支配し、タタールのみならずノガイ・オルダの一部まで支配する王国に成長した。なお、その後クリミア・ハン国のハン位を独占したメングリ1世ギレイの男系子孫はみな名前の後半に「ギレイ」の名を冠したため、この王家は「ギレイ家」と通称されている。1532年サーヒブ1世ギレイ英語版バフチサライに宮殿を築き、そこへ遷都した。

最盛期

編集

16世紀前半のクリミア・ハン国はカザン・ハン国へしばしばハン位の継承者を送り出し、同じくカザンへの影響力を強めようとするモスクワ大公国と対抗関係にあり、その軍勢はモスクワトゥーラを幾度も包囲し、モスクワ大公国を大いに脅かした。世紀半ばにはカザン・ハン国、アストラハン・ハン国がモスクワによって相次いで滅ぼされ、タタールの国々へのモスクワの影響力が増すが、1551年に即位したデヴレト1世ギレイ英語版の率いるクリミア・ハン国軍は、モスクワ大公国がリヴォニア戦争1558年1583年)の最中に、露土戦争 (1568年-1570年)オスマン帝国と共にアストラハンへ攻め込んで逆襲を試みた。1571年ロシア・クリミア戦争英語版では、ポーランド・リトアニア連合王国と結んでモスクワを強襲し、モスクワの町を焼き払った(モスクワ大火 (1571年)英語版)。1572年にもモロディの戦い英語版で再び攻め込んだが、撃退された。

また、このような大規模な遠征でなくとも、クリミア・ハン国のタタールやノガイたちはしばしばモスクワ大公国の領内に攻め込み、都市や農地を焼き払い、住民を捕虜として連れ去った。このためにクリミアの都市の商館は商品となるロシア人ウクライナ人奴隷で溢れかえったと言われている。 モスクワ大公国は捕虜となった人々を奴隷身分から買い戻すために多額の支出をせねばならず、また、襲撃を回避するためにジョチ・ウルスの正統継承者として貢納を課すクリミア・ハン国の要求に応えねばならなかった。

衰退と滅亡

編集
 
1600年のヨーロッパ

17世紀に入ると、ロシア・ウクライナの方面ではコサックと呼ばれる正教徒の集団が各地にあらわれ、ムスリムであるクリミア・ハン国やオスマン帝国の領内に対して、逆に襲撃をしかけるようになった[注釈 1]。また、ロシアでは南方の防衛体制がようやく整い、逆茂木線と呼ばれる防御ラインも構築されたため、世紀半ばにはロシアへのクリミア・ハン国の襲撃はようやく下火になった。17世紀後半になると、モスクワ大公国(ロシア帝国)はウクライナへと支配を広げ、クリミア・ハン国と直接境界を接することになるとともに、クリミア・ハン国へは次第にロシアの圧力が加えられるようになる。

1683年、クリミア・ハン国の軍勢も参加したオスマン帝国の第二次ウィーン包囲が失敗に終わると、クリミア・ハン国もオスマン帝国の対ロシア戦争に巻き込まれた。18世紀にはロシアの圧力はさらに強まり、1736年には初めてクリミア半島本土へのロシア軍の侵攻を許した。このとき、16世紀以来のバフチサライの都と宮殿はロシア軍の手によって放火、破壊されている。

1768年に始まる露土戦争の後、ロシアは1774年キュチュク・カイナルジ条約によって、クリミア・ハン国をオスマン帝国から独立させ、300年続いたオスマン帝国の保護から切り離した。これ以降、クリミアに対するロシアの影響力は急速に強まる。1783年、ロシア帝国のエカチェリーナ2世はクリミア・ハン国を併合した[3]

歴代君主

編集
  1. ハージー1世ギレイ英語版1430年頃 - 1456年、1期目)
  2. ハイデル英語版1456年
  3. ハージー1世ギレイ(1456年 - 1466年、2期目)
  4. ヌール・デヴレトロシア語版1466年 - 1467年、1期目)
  5. メングリ1世ギレイ1467年、1期目)
  6. ヌール・デヴレト(1467年 - 1469年、2期目)
  7. メングリ1世ギレイ(1469年 - 1475年、2期目)
  8. ヌール・デヴレト(1475年 - 1476年、3期目)
  9. ジャーニー・ベク1474年 - 1476年)…アストラハン・ハン(在位:1514年 - 1521年
  10. メングリ1世ギレイ(1478年 - 1515年、3期目)
  11. メフメト1世ギレイ英語版1515年 - 1523年
  12. ガーズィー1世ギレイロシア語版1523年 - 1524年
  13. サーデト1世ギレイロシア語版1524年 - 1532年
  14. イスラーム1世ギレイロシア語版1532年)…アストラハン・ハン(在位:1531年 - 1532年
  15. サーヒブ1世ギレイ英語版1532年 - 1551年
  16. デヴレト1世ギレイ英語版1551年 - 1577年
  17. メフメト2世ギレイ2世ロシア語版1577年 - 1584年
  18. サーデト2世ギレイ2世ロシア語版1584年 - 1588年
  19. ガーズィー2世ギレイロシア語版1588年 - 1596年、1期目)
  20. フェトフ1世ギレイロシア語版1596年
  21. ガーズィー2世ギレイ(1596年 - 1607年、2期目)
  22. トクタミシュ・ギレイロシア語版1607年 - 1608年
  23. セラーメト1世ギレイロシア語版1608年 - 1610年
  24. ジャニベク・ギレイロシア語版1610年 - 1623年、1期目)
  25. メフメト3世ギレイロシア語版1623年 - 1628年
  26. ジャニベク・ギレイ(1628年 - 1635年、2期目)
  27. イナイェト・ギレイロシア語版1635年 - 1637年
  28. バハディル1世ギレイロシア語版1637年 - 1641年
  29. メフメト4世ギレイ英語版1641年 - 1644年、1期目)
  30. イスラーム3世ギレイ英語版1644年 - 1654年
  31. メフメト4世ギレイ(1654年 - 1666年、2期目)
  32. アディル・ギレイ1666年 - 1671年
  33. セリム1世ギレイ英語版1671年 - 1678年、1期目)
  34. ムラト・ギレイ英語版1678年 - 1683年
  35. ハージー2世ギレイロシア語版1683年 - 1684年
  36. セリム1世ギレイ(1684年 - 1691年、2期目)
  37. サーデト3世ギレイロシア語版1691年
  38. サファ・ギレイロシア語版1691年 - 1692年
  39. セリム1世ギレイ(1692年 - 1699年、3期目)
  40. デヴレト2世ギレイ英語版1699年 - 1702年、1期目)
  41. セリム1世ギレイ(1702年 - 1704年、4期目)
  42. ガーズィー3世ギレイロシア語版1704年 - 1707年
  43. カプラン1世ギレイロシア語版1707年 - 1708年、1期目)
  44. デヴレト2世ギレイ(1709年 - 1713年、2期目)
  45. カプラン1世ギレイ(1713年 - 1715年、2期目)
  46. デヴレト3世ギレイロシア語版1716年 - 1717年
  47. サーデト4世ギレイロシア語版1717年 - 1724年
  48. メングリ2世ギレイロシア語版1724年 - 1730年、1期目)
  49. カプラン1世ギレイ(1730年 - 1736年、3期目)
  50. フェトフ2世ギレイロシア語版1736年 - 1737年
  51. メングリ2世ギレイ(1737年 - 1740年、2期目)
  52. セラーメト2世ギレイロシア語版1740年 - 1743年
  53. セリム2世ギレイ英語版1743年 - 1748年
  54. アルスラーン・ギレイロシア語版1748年 - 1756年、1期目)
  55. ハリム・ギレイロシア語版1756年 - 1758年
  56. クルム・ギレイ英語版1758年 - 1764年、1期目)
  57. セリム3世ギレイロシア語版1765年 - 1767年、1期目)
  58. アルスラーン・ギレイ(1767年、2期目)
  59. マクスド・ギレイロシア語版1767年 - 1768年
  60. クルム・ギレイ(1768年 - 1769年、2期目)
  61. デヴレト4世ギレイロシア語版1769年 - 1770年、1期目)
  62. カプラン2世ギレイ英語版1770年
  63. セリム3世ギレイ(1770年 - 1771年、2期目)
  64. サーヒブ2世ギレイロシア語版1771年 - 1775年
  65. デヴレト4世ギレイ(1775年 - 1777年、2期目)
  66. シャヒン・ギレイ英語版1777年 - 1782年、1期目)
  67. バハディル2世ギレイロシア語版1782年、1期目)
  68. シャヒン・ギレイ(1782年 - 1783年、2期目)
  69. バハディル2世ギレイ(1783年 - 1790年、2期目)

ロシア帝国に併合

注釈

編集
  1. ^ 17世紀ロシアの外交官コトシーヒンによると、この時期にクリミア・ハン国にあてた公文書の中ではロシア皇帝はただツァーリとだけ名乗り、兄弟関係および隣人関係の名において呼びかけられ、皇子たちが兄弟と呼ばれることはない、という[2]

脚注

編集
  1. ^ ハージー1世ギレイ英語版は、バシ・テムル: Bash Timurまたは: Tash Timur)の子。Henry Hoyle Howorth, "History of the Mongols from the 9th to the 19th Century. Part 2. The So-Called Tartars of Russia and Central Asia. Division 1.", p.21, ISBN 9781402177729
  2. ^ G・コトシーヒン『ピョートル前夜のロシア』彩流社、2003年、84頁。 
  3. ^ クリム・ハン国https://kotobank.jp/word/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%B3%E5%9B%BDコトバンクより2023年4月2日閲覧 

参考文献

編集