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韓攻略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
韓攻略戦
戦争秦の統一戦争
年月日紀元前231年~紀元前230年
場所新鄭
結果:韓の滅亡
交戦勢力
指導者・指揮官
内史騰 韓王安
戦力
10万人 8万人
損害
数千 不明
秦の統一戦争

韓攻略戦(かんこうりゃくせん)は、紀元前230年を滅ぼした戦い。

背景

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秦は趙との戦争(肥下の戦い番吾の戦い)で多大な損害を出し、進攻を阻まれたため、戦略の方針を変更し主攻を韓に定めた。

攻略戦

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秦王政16年(紀元前231年)、9月、秦は兵を発し、韓の南陽の地を受け、騰を仮の南陽とした[1]

秦王政17年(紀元前230年)、騰率いる秦軍は南下し、新鄭を急襲した。韓王安は捕虜となり、韓は滅亡した。韓の国土は秦の潁川郡となった[2]

影響

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韓を滅ぼしたことにより、秦の統一への道が開かれた。韓は脆弱な国であったが、兵器は精良であり、「天下之強弓勁弩皆從韓出(優れた弓と弩は全て韓から生まれた)」と評されるほどであった[3]。よって韓を併合することで秦の軍事力はさらに強化された。韓の地理的な位置も重要で、、趙、の間に位置しており、これが秦の東進を防ぐ前線となっていた。韓が占める伊闕成皋などの地域は天険であり、攻めるに難しく、韓が存在する限り他の国々は安定していたため、韓を迅速に滅ぼすことで秦は統一の進展を大いに加速させた[4]

脚注

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  1. ^ 《史記·秦始皇本紀》「十六年九月,發卒受地韓南陽假守騰。」
  2. ^ 《史記·秦始皇本紀》「十七年,内史騰攻韓,得韓王安,盡納其地,以其地為郡,命曰潁川。」
  3. ^ 《史記·蘇秦列傳第九》「天下之彊弓勁弩皆從韓出。谿子、少府時力、距來者,皆射六百步之外。」
  4. ^ 秦灭韩之战 - 中国军网(中国語)