織田輔宜
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保17年(1732年) |
死没 | 寛政11年8月29日(1799年9月28日) |
別名 | 通称:幸次郎 |
墓所 | 東京都港区の泉岳寺 |
官位 | 従五位下・丹後守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗→家重→家治 |
藩 | 大和芝村藩主 |
氏族 | 織田氏(長益系長政流) |
父母 | 父:織田長亮、母:細川有孝養女 |
兄弟 |
輔宜、益聡、長教、南部信興正室、 本善寺住詮室など3男4女 |
妻 |
正室:土岐頼稔娘 継室:毛利政苗娘 |
子 |
実子無し 養子:長教 |
特記 事項 | 織田信長、徳川家康・松平信康父子、細川幽斎・細川忠興父子、明智光秀、小笠原秀政の直系子孫。 |
織田 輔宜(おだ すけよし)は、江戸時代中期の大名。大和国芝村藩7代藩主。通称は幸次郎。官位は従五位下・丹後守。長政流織田家7代。
生涯
[編集]6代藩主・織田長亮の長男として江戸にて誕生。生母が父の正室であることから系図上は長男とされるが、実際は次男または三男であった可能性もある。
享保18年(1733年)8月2日、父・長亮の死去に伴い家督を相続する。延享2年(1745年)12月12日、陣屋を戒重から芝村に移転する。延享4年(1747年)11月1日、9代将軍・徳川家重に御目見する。同年12月19日、従五位下丹後守に叙任する。
元文2年(1737年)5月25日、幕府から幕府領13000石を預けられる。後に93430石にまで加増される。ただし、宝暦3年(1753年)、預地の農民が重税を京都町奉行所に箱訴に及び、芝村騒動が発生した。明和4年(1767年)5月9日、駿府加番を命じられる。
安永7年(1778年)2月25日に隠居し、異母弟で養嗣子の長教に家督を譲る。寛政11年(1799年)8月29日、江戸において死去、享年68。墓所は泉岳寺。