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織田信憑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
織田信憑
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 寛保元年(1741年
死没 天保2年12月10日1832年1月12日
改名 信富(初名)、信憑
別名 万五郎、大学(通称
墓所 東京都練馬区広徳寺
官位 従四位下出雲守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
丹波柏原藩
氏族 織田氏(長政流高家)織田氏(信雄系高長流)
父母 織田信栄:不詳
養父織田信旧
兄弟 信之信憑信邦信浮松平親章室、酒井政勝室、大久保忠官
信守信存小堀正徳長衆、悌、律ら5男4女
養子信応
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織田 信憑(おだ のぶより)は、江戸時代中期から後期にかけての大名丹波国柏原藩の第4代藩主通称は万五郎、大学。官位従四位下出雲守。高長系織田家7代。

生涯

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寛保元年(1741年)、高家旗本織田信栄の次男として江戸にて誕生した。初名は信富。

宝暦8年(1758年3月26日、柏原藩主・織田信旧の長男・元丸、次男・勇千代が早世したため、その養子となる。なお、信旧には同年、3男の信応が生まれた。そのため、寛政元年(1789年)12月、信憑は信応を養嗣子に迎えた。宝暦10年(1760年)7月1日、第10代将軍・徳川家治御目見する。

天明3年(1783年7月2日、家督を相続する。同年12月18日、従五位下・出雲守に叙任する。天明4年(1784年)4月25日、藩主として初めてお国入りする許可を得る。

文化12年(1815年12月23日、老年に至るまで参勤交代といった大名としての責務を怠らず勤めたとして、従五位下から従四位下に昇進する。それに伴って、柳の間詰から大広間詰となる。文政10年(1827年10月10日に隠居し、長男の信守に家督を譲る。なお、養嗣子の信応は享和元年(1801年)に死去している。

天保2年(1831年)12月10日、江戸において死去、享年91。広徳寺に葬られる。

系譜

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正室はなし。子女は5男4女。

脚注

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  1. ^ 京都代官。室は九鬼隆張娘。