海難事故の一覧
表示
海難事故の一覧(かいなんじこのいちらん)
ここでは特に社会的影響の大きかった海難事故に限り、便宜的に記載する。
1900年代以前
[編集]- 遣唐使船の遭難が記録に残されている。
- 海難事故によりイングランド、ノルマンディーの王族、貴族多数が水死した。
- 元の艦隊が日本の近海で夜半、嵐に遭い多大な損害を被った。
- イギリス・シリー諸島沖で21隻からなる英国海軍艦隊が嵐に遭い、岩礁に追い込まれた。うち4隻が喪失、1,400人を超える犠牲者を出した。
- イギリス・ポーツマスで一等戦列艦「ロイヤルジョージ(HMS RoyalGeorge)」が寄港の折に、船体を傾けて水面下の海水取り入れ口の整備を行っていたところ、慰問に訪れた乗組員の家族が多数乗船したために想定以上に傾斜し、バランスを失い転覆、沈没した。358人の女子供を含む800名から900人の死者を出した。[1]
- バウンティ号の反乱の起きた「バウンティ」の乗組員を逮捕したイギリス海軍のフリゲート「パンドラ」がトレス海峡付近のグレート・バリア・リーフの外縁に座礁し、翌日沈没。乗組員31人と「バウンティ」の囚人4人が死亡。
- 1814年7月
- ナポレオン失脚後の植民地の返還を受け、セネガルに官僚を輸送するフランス海軍のフリゲート「メデューズ」が、艦長の不適切な指揮によって座礁した。乗員乗客はボート2艘と筏で脱出したが、まもなくボートは筏を見捨て切り離した。ボートに乗った者の大半と、筏で漂流した約150人のうち10人、船に残った17人のうち3人が生還した。
- 唐船(17人乗組)が紀伊熊野に漂着。
- インドネシア・バンカ・ブリトゥン州のGaspar海峡で清からの移民を載せたジャンク船「的星」が座礁し沈没。
- 1850年(嘉永3年)4月11日
- イギリス軍の兵員とその家族を載せた軍隊輸送船(蒸気船)「バーケンヘッド(Birkenhead)」が南アフリカ西ケープ州の港からの出港直後、岩に衝突し沈没した。約450人が死亡。
- 1852年(咸豊2年)2月19日
- 大西洋定期航路に就航していた側輪蒸気船「アークティック」が、ニューファンドランド島のケープレース沖で、フランスの鋼製蒸気船「ベスタ」と衝突後に沈没。乗員乗客合わせて534人のうち、女性と子供109人を含め約350人が死亡。
- ブリガンティン(帆船)「メアリー・セレスト号(小説では「マリー・セレスト」と表記)」が、ポルトガル沖で無人のまま漂流しているのを発見された。
- フランスの郵便船「ニール号」が、伊豆半島沖で座礁沈没、乗員乗客90人のうち助かったのは4人だけだった。積荷は日本政府がウィーン万博に出品した美術工芸品などで、ほとんどが水没した。
- 客船「ドイッチュラント(蒸気船、2,800トン)」がテムズ川河口でブリザードに遭遇し、砂州に座礁。翌日に救助が来たが、乗客・乗務員100名以上が死亡する惨事となった。この事故は社会に大きな衝撃を与え「ドイッチュラントの遭難」という詩が作られた。
- 北海道・瀬棚海岸沖にてロシア軍艦「アレウト」がおりからの暴風に煽られ座礁。乗組員60人全員が地元住民により救助されるも、翌1878年(明治11年)4月20日迎えに来た軍艦「エルマック」へ「アレウト」乗組員がボートで向かう途中高波により転覆、12人が犠牲になった。
- 1878年(明治11年)12月24日
- アメリカ合衆国・ペンシルバニア州フィラデルフィアから石油を積み、兵庫県・神戸市に向かっていた米国の三本マストの帆船(バーク船)「カジミア号」が種子島の東南海上で猛烈な暴風雨に遭遇し転覆、乗組員15名のうち、船長以下3名の上級船員は大波にさらわれて死亡した。7名が種子島立山の海岸に、5名が伊関の海岸に漂着し、それぞれの村人に救助、手厚く介抱され、無事帰国することができた。
- イギリス商船「ノルマントン号」が、和歌山県潮岬沖で沈没、日本人乗客25人ほか、中国人、インド人乗組員12人が死亡。イギリス人船員は全員生存し、当時の日本で社会問題になった。
- 1886年(明治19年)12月
- 日本海軍の巡洋艦「畝傍」がフランスから日本への回航中、シンガポールを発ったのを最後に消息を絶つ。荒天により沈没と思われるが原因や状況などは現在に至るまで不明。フランス人乗組員や日本海軍の将兵など計90人が行方不明となった。
- 客船「ブリタニック」が霧のため「セルティック」と衝突。激しく損傷したが沈没の恐れがなかったため援助にきた船と共にニューヨーク港に移動した。
- 1890年(明治23年)9月16日 - エルトゥールル号遭難事件
- イギリスの家畜運搬船「ナローニック」が大西洋上で失踪。74人全員行方不明。
1900年代
[編集]- ニューヨーク・イースト川で遊覧船「ジェネラル・スローカム」が火災。犠牲者1031人。
- アメリカ東海岸で濃霧の中、客船「リパブリック」が客船「フロリダ」と衝突し、翌24日に「リパブリック」が沈没した。死者6名。
- 1909年(明治42年)7月26日
1910年代
[編集]- 逗子開成中学校・高等学校の生徒ら12人が七里ヶ浜沖で遭難し、全員死亡。三角錫子の作詞で鎮魂歌として「真白き富士の根」が作られ、遭難地点に近い稲村ヶ崎に慰霊碑が建立された。
- 日本海軍の「第六潜水艇」が、広島湾でガソリン潜航実験の訓練中に沈没。艇長佐久間勉大尉以下乗員14名全員殉職。後日引き上げられ、最後まで規律を保って配置を守っていた乗組員の遺体と、佐久間が絶命の瞬間まで書き綴った遺書が発見された。その様子は国内では教科書や軍歌に取り上げられるほどの社会現象となり、アメリカ・イギリスなどにおいても大きな話題となった。
- 1912年(明治45年)4月14日 - タイタニック号沈没事故
- 1912年(明治45年)5月4日
- 1912年(大正元年)9月23日
- 青森県の尻屋崎の沖合いで石炭運搬船「相川丸(1,536トン)」が台風による暴風雨で沈没。乗員33名全員死亡。
- 1914年(大正3年)5月29日
- カナダ船籍客船「エンプレス・オブ・アイルランド(14,191トン)」が濃霧のセントローレンス川でノルウェー船籍貨物船「ストールスタッド(6,028トン)」と衝突して沈没。1024人が死亡・行方不明。
- 1916年(大正5年)4月23日
- 1918年(大正7年)5月5日
第一次世界大戦時
[編集]- 1917年(大正5年)2月21日
- イギリス軍に輸送船として徴用された客船「メンディー」が貨物船「ダッロ」に衝突されて沈没。死者646名。
- 1917年(大正6年)12月6日 - ハリファックス大爆発
- イギリス海軍による夜間演習で、濃霧の中8隻の艦艇が関与して5件の衝突事故が発生した。潜水艦2隻が沈没、潜水艦4隻と巡洋艦1隻が損傷。死者270名。
- 1918年(大正7年)3月
- 1918年(大正7年)10月6日
- イギリス軍に輸送船として徴用された客船「オトラント」が同じ護送船団に参加していた同「カシミール」に衝突されて沈没。死者431名。
1920年代
[編集]- 1921年1月
- 商業スクーナー(帆船)「キャロル・ディアリング号」が、アメリカ合衆国ノースカロライナ州のハッテラス岬(Cape Hatteras)沖において座礁。2月4日に救助が到着した時には、誰も乗っていなかった。
- 1923年(大正12年)9月8日 - ホンダポイント遭難事件
- カリフォルニア州沖で訓練航行中の14隻の駆逐艦のうち9隻が次々に座礁し、7隻が喪失。2隻で計23名が死亡。
- 漁船「良栄丸」(42トン)が本州東方海上で機関が故障して航行不能となって漂流。乗組員全員が餓死した後、翌年の10月末に北アメリカ西岸に漂着した。
- 島根県美保関沖で夜間演習中の軽巡洋艦「神通」と駆逐艦「蕨」が衝突して「蕨」が沈没、軽巡洋艦「那珂」と駆逐艦「葦」も衝突し、将兵119名が殉職した。「神通」艦長水城圭次大佐は軍法会議にかけられ、判決の前日に自決した。
1930年代
[編集]- 1930年(昭和5年)3月3日
- 青森県尻屋崎沖合で神戸村尾汽船の貨物船(船名不詳)が沈没。乗組員30人死亡[13]。
- 神戸港付近で尼崎汽船の「菊水丸(トン数不詳)」とフランスの汽船(船名不詳)が衝突。両船が沈没して28人が死亡[13]。
- 1931年(昭和6年)9月12日
- 長崎県五島列島付近で長崎県水産試験場の試験船「長洋丸(41トン)」が台風による暴風雨で沈没。乗組員14人が死亡[13]。
- 1931年(昭和6年)10月1日
- アラスカ沿岸で貨物船「ベイチモ(1,322トン)」が叢氷に閉じ込められ放棄された。
- 香川県多度津町沖合で「天竹丸(トン数不詳)」が沈没。乗組員16人が死亡[13]。
- 1932年(昭和7年)8月16日
- 愛媛県の釣島海峡で「日福丸(トン数不詳)」と「日出丸(トン数不詳)」が衝突。日福丸が沈没して乗組員19人が死亡[13]。
- 1932年(昭和7年)9月13日
- 1932年(昭和7年)10月14日
- 小笠原諸島の沖合で鈴岡県地頭方村の漁船「海勢丸(トン数不詳)」と「愛石丸(トン数不詳)」が難破。乗組員1人を除く118人が死亡した[13]。
- 1933年(昭和8年)5月31日
- 広島県宇品港で火薬運搬船(船名、トン数不詳)が爆発。船長夫妻が死亡、周囲の工場や民家500戸余りに被害[13]。
- 1933年(昭和8年)10月1日
- 熊本県三角港の沖合で観光船(船名、トン数不詳)が沈没。乗客ら90人が死亡[13]。
- 1933年(昭和8年)10月20日
- 兵庫県神戸市須磨区沖合で客船「屋島丸(946トン)」が台風接近による暴風雨のため沈没[15]。乗客41人、船員26人死亡、乗客2人行方不明[16]。後に被害をもたらした台風は屋島丸台風と名付けられた。
- 1933年(昭和8年)11月17日
- 沖縄諸島で富山県高岡市の貨物船「盛典丸(1440トン)」が沈没。船長ら19人が死亡、機関士ら17人は一週間漂流後に救助された[13]。
- 1933年(昭和8年)11月30日
- 東京都大島灘でで「浅間丸(トン不詳)」が難破。乗組員17人が死亡[13]。
- 1934年(昭和9年)3月24日 - 神竜湖遊覧船沈没事故
- 1934年(昭和9年)9月8日 - モロ・キャッスル号火災事故
- 大西洋でアメリカのクルーズ客船「モロ・キャッスル」が火災を起こし全損。死者135人。公式には事故とされるが、「放火した」と発言している乗組員がいる。
- 1934年(昭和9年)11月8日
- 1934年(昭和9年)12月28日
- 1934年(昭和9年)
- 済州島沖で演習中だった暁型駆逐艦四番艦「電」と吹雪型駆逐艦四番艦「深雪」が濃霧の中衝突して「深雪」が船体断裂により沈没、「電」も約三ヶ月の復旧工事が必要になった。
- 1935年(昭和10年)7月3日
- 大分県の別府港を出航して兵庫県神戸市へ向う途中の大阪商船の客船「緑丸(1,724トン)」が小豆島地蔵埼付近で、濃霧の中大連汽船の「千山丸(2,775トン)」と衝突。この事故で船腹に衝突された「緑丸」は3分ほどで沈没[17]。乗員ら86名が死亡[13]。
- 1935年(昭和10年)9月25日
- 長崎県から大阪府に石炭を運ぶ途中の福岡県の貨物船「彦山丸(929トン)」が博多湾の沖で遭難。22名が死亡。
- 1936年(昭和11年)2月5日
- 1936年(昭和11年)5月19日
- 1936年(昭和11年)6月21日
- 1936年(昭和11年)10月22日
- 樺太・栄浜村沖で「相州丸(1,219トン)」が浅瀬に座礁する事故が起きた。「相州丸」は救助船「大浦丸」に曳航されて函館港に向かっていたが、「大浦丸」は天売島沖で舵を損傷。「相州丸」は23日に増毛町の南に漂着した。また「大浦丸」の救難ボートに乗り移った者もいたが、この救難ボートは23日に留萌市付近に着岸する前に転覆した。これらの事故により19名が行方不明になった。
- 北海道小樽港から静岡県清水港へ向けて航行中の石炭運搬船「愛国丸(3,212トン)」が暴風雪により積丹岬(入舸村)沖合いにて座礁、船体が二つに折れて沈没、33名が死亡または行方不明。同船は石炭を4293トン積載していた[20]。
- 1937年(昭和12年)2月14日
- 横浜から函館へ向っていた貨物定期船「小樽丸(1,464トン)」が吹雪で荒れる太平洋上、青森県沖合(東経142度北緯41度付近)で座礁したことを伝える無線を発し[21]行方不明となり、後日沈没しているのが発見された。乗組員36名全員死亡。
- 1937年(昭和12年)12月1日
- 大阪府安治川河口付近で大阪市営渡船「第3桜島丸(トン数不詳)」が転覆。乗客17人が死亡、数人が行方不明[13]。
- 1937年(昭和12年)12月18日
- 朝鮮半島木浦市の沖合で漁船団約600隻が強風に遭い転覆。乗組員約3000人が行方不明[13]。
- 1937年(昭和12年)12月26日
- 大阪川口尼崎汽船の貨物船「羽衣丸(322トン)」が神戸港から下関港へ向かう途中で乗員19人ともども行方不明[13]。
- 1938年(昭和13年)1月2日
- 広島県宇品港の沖合で江田島汽船の「みどり丸(14.5トン)」が強風のため沈没。乗客43人が死亡[13]。
- 1938年(昭和13年)1月27日
- 北海道銭函町約8km沖合で石炭運搬船「昭広丸(1222トン)」が時化のため救難信号を出した後に沈没。死者・行方不明31人。同船は石炭を1550トン積んであり、激浪が船内に入り込み沈没に至ったと判断された[22]。
- 1939年(昭和14年)5月21日
- 山口県下関市船島の沖合で山下汽船のチャーター船「恒彦丸(3973トン)」が錨を入れ替えた際に朝鮮郵船の「咸興丸(トン数不詳)」と接触。さらに漂流して門司港内で三井物産の「瑞光丸(4153トン)」と衝突して沈没。乗船者19人が死亡[13]。
- 1939年(昭和14年)11月1日
- 1939年(昭和14年)12月12日
1940年代
[編集]- 1940年(昭和15年)3月16日
- 1940年(昭和15年)3月17日
- 福岡県博多築港沖合で定期船「広博丸」(トン数不詳)と貨物船(船名、トン数不詳)が衝突。11人が死亡、4人が行方不明[23]。
- 1940年(昭和15年)6月30日
- 1940年(昭和15年)9月
- 八丈島の沖合で静岡県御前崎村の漁船「福吉丸」(トン数不詳)が遭難。乗組員16人が死亡[23]。
- 琵琶湖に面する滋賀県大津市に合宿していた第四高等学校(現:金沢大学)の漕艇部員8名と他の3名(合計11名)が強風の中を同県今津町(現:高島市)から琵琶湖へボートを出艇させて遭難し、全員が死亡した。遭難の原因は強風で転覆したものと推測されるが全員が死亡したため詳細は不明。なお、この事故は後日、その悲劇を悼む歌として「琵琶湖哀歌(歌は東海林太郎と小笠原美都子)」としてレコード発売された事により全国的に有名な事件となった。
- 1941年(昭和16年)5月18日
- 香取神宮(千葉県)や鹿島神宮(茨城県)への参拝客77名を乗せた水郷汽船「水郷丸30号」(4トン)が鹿島郡豊津村(現:鹿嶋市)から潮来町(現:潮来市)へ向かう途中の利根川で転覆・沈没し49名が死亡。定員30人のところを77名も乗せて運航したのが原因とされた。
- 1941年(昭和16年)6月3日
- 北海道で北日本汽船の「福栄丸」(トン数不詳)が沈没。乗客ら17人が死亡[23]。
- 1941年(昭和16年)9月15日
- サハリン東岸沖合で神戸巴組の「得山丸」(5230トン)と大阪橋本汽船の「幸喜丸」(5290トン)が濃霧のため衝突、沈没。乗組員18人が死亡・行方不明[23]。
- ニューヨーク港で軍の徴用に向けて改装中だった「ノルマンディー」が火災を起こし、消火時の放水で浸水したことにより転覆。船体が巨大であったこと、狭い埠頭で転覆したことから上部構造物を全て撤去して引き上げたが、結局第二次世界大戦後に解体された。
- 1942年(昭和17年)11月11日
- 中国長江河口沖合で東亜海運の「神戸丸」と日本郵船の「天山丸」(双方、トン数不詳)が衝突、沈没。死者47人[23]。
- 1942年(昭和17年)12月31日
- 1943年(昭和18年)4月9日
- 1943年(昭和18年)7月15日
- 鹿児島県垂水港を出港した垂水汽船「第六垂水丸」が転覆沈没[6]。原因は定員の2倍の人員となる700人超を乗せたことによる復元力低下。死者数は長らく不明とされてきたが、後年、547人と特定されている。当初、船長は定員超過を危惧して出航を見合わせていたが、客からの脅迫により出航を余儀なくされ、出港後約200m先で方向転換したところでバランスを崩して転覆したと伝えられる[27]。
- 1944年(昭和19年)6月13日
- アメリカ海軍第38任務部隊がフィリピン沖で台風に遭遇し、駆逐艦3隻沈没など大きな損害を出した。
- 長崎交通船の木造船「近海丸」が長崎市小江町沖で沈没し、273人死亡。過積載が原因とされる。
- 青森港内にて青函連絡船の「第五青函丸」が折からの暴風に煽られ防波堤に接触し浸水、沈没した。死者・行方不明者82名。戦時設計のため二重船底が廃止された上に外板が薄く設計されていたこと、重心が高かったことなどが沈没の要因としてあげられる。
- 朝鮮人労働者とその家族を乗せた「浮島丸」が舞鶴湾内で機雷に触れて沈没。乗員と便乗者549名が死亡。
- 1945年(昭和20年)10月7日
- 神戸魚崎沖で客船「室戸丸」が機雷に触れて沈没し、死者・行方不明475人。
- 1945年(昭和20年)10月13日
- 神戸沖で客船「華城丸」が機雷に触れて沈没し、死者・行方不明175人。
- 1945年(昭和20年)10月14日
- 台湾からの引き揚げ船「栄丸」が座礁沈没し、死者約100人。
- 尾道港発今治港行き瀬戸内海汽船の今尾連絡船「第十東予丸(162トン)」が、荒天の中、定員210人の3倍を超える乗客を乗せた為、復元力を失って伯方島木浦港沖で転覆・沈没し、死者・行方不明397名を出す惨事になった。地元で架橋運動が始まるきっかけとなり、1957年の第五北川丸沈没事故もあり、しまなみ海道の建設につながった。
- 荒天の明石海峡で「せきれい丸(定員100人)」が転覆し沈没。304名が死亡または行方不明。
- 1948年(昭和23年)12月4日
- 1949年(昭和24年)1月30日
- 1949年(昭和24年)2月28日
- 秋田県入道崎沖合で、汽船「雲仙丸(640トン)」が沈没。乗員・乗客のうち死者・行方不明者13人[28]。
- デラ台風が日本列島を縦断。各地で船舶流失・沈没661隻、船舶破損1928隻。
- 1949年(昭和24年)6月21日
- 1949年(昭和24年)11月12日
- 1949年(昭和24年)11月26日
第二次世界大戦時
[編集]- 1942年(昭和17年)5月12日
- 客船「長崎丸」(5,268トン、東亜海運)が上海から長崎港外に到着し、附近の哨戒艦と連絡のため指定航路を僅かに外れた時、日本海軍の機雷に触れて沈没。死者13名、行方不明者26名。生き延びてしまった菅源三郎船長の切腹と言う壮絶な結末で有名な海難事故。
- 1943年(昭和18年)3月19日
- 1943年(昭和18年)10月7日
- 1944年(昭和19年)2月25日
- 輸送船「丹後丸」と「隆西丸」が米潜水艦「ラッシャー」により連続撃沈。後者だけで4968-4999人が死亡。
- 1944年(昭和19年)6月29日
- 1944年(昭和19年)8月22日
- 沖縄からの児童疎開船「対馬丸」が米潜水艦「ボーフィン」の雷撃により沈没。疎開児童708名を含む1484名が死亡。3隻の疎開船団(「対馬丸」「暁空丸」「和浦丸」)の唯一の犠牲。また、沖縄本島からの疎開船(延べ187隻)の中で唯一、撃沈された船でもある。
- 1944年(昭和19年)9月18日
- 1945年(昭和20年)1月30日
- バルト海にてドイツ客船「ヴィルヘルム・グストロフ」がソ連潜水艦「S-13」の雷撃により沈没。乗船していた難民など9331名が死亡。
- 1945年(昭和20年)2月10日
- ドイツ客船「シュトイベン」がソ連潜水艦「S-13」の雷撃により沈没。難民など4500人が死亡。
- 安全航行を保障されていた緑十字船「阿波丸」が台湾海峡にて米潜水艦「クイーンフィッシュ」により撃沈される。乗客2000人以上が死亡。艦長は阿波丸に対する攻撃を敢行し撃沈してしまい、しかも標的が軍艦だと誤認して攻撃している。クイーンフィッシュのチャールズ・E・ラフリン艦長は「不注意」ということで軍法会議で有罪判決(戒告処分)を受けている。
- 1945年(昭和20年)4月16日
- 1945年(昭和20年)5月3日
- ドイツ客船「カップ・アルコナ」が英空軍の空襲により沈没。5594名が死亡。強制収容所の収容者が多く犠牲となった。
- 1945年(昭和20年)7月29日
- 米重巡洋艦「インディアナポリス」が日本潜水艦「伊号第五八潜水艦」の雷撃により沈没。米海軍は同艦沈没の事実を人為的ミスによって丸四日間気付かず、乗員1196名中、880名が死亡した。同艦は広島へ投下された原子爆弾「リトルボーイ」の輸送任務を終えた直後だった。生き残ったチャールズ・B・マクベイ3世艦長は軍法会議にかけられ有罪となり、1968年に自殺している。この事件は海軍の真相隠蔽疑惑と、マクベイ艦長の名誉回復を巡って今も論争が続いていたが2000年に米国議会で名誉回復が決まった。
- 樺太からの引き揚げ船「小笠原丸」・「第二号新興丸」・「泰東丸」が、ソ連潜水艦(L-12、L-19)の雷撃・砲撃を受け「小笠原丸」と「泰東丸」が沈没、「第二号新興丸」が大破した。1700人以上が死亡。犠牲者の大半は民間人。
1950年代
[編集]1950年(昭和25年)
[編集]- 静岡県伊東市の「盛徳丸(30トン)」が伊豆大島の沖合いで沈没。乗組員32名が死亡。
- 愛媛県の今治市から大阪へ向かう定期旅客船「第2高島丸(161トン)」が沈没。16名が死亡。
- 北海道南部で暴風、暴雪。操業中の漁船が多数沈没して死者・行方不明者34人[30]。
- 長崎から名古屋へ向かっていた「豊丸(725トン)」がSOSを発信した後に消息不明となった。その後救命ボートに乗っていた5名が助かったが26名が犠牲となった(なお沈没を報じた日本経済新聞では船名を「富丸」としている[31])。
1951年(昭和26年)
[編集]- 横浜市の大岡川に浮かぶ日雇い労務者用の水上ホテルが転覆。7名が犠牲となった。定員250人のところに432名が乗り込みバランスが崩れたのが原因と思われた。
- 東京湾および関東付近の太平洋で吹雪まじりの嵐となり漁船などの連続遭難事件が発生した。14日と15日の両日だけで小型漁船を中心に沈没43隻、流失46隻、損壊15隻、行方不明9隻、座礁6隻を出す事態となった。
- 福島県にある桧原湖にて遊覧船(定員60名)が定員をオーバーする乗客を乗せて沈没。女子中学生1名死亡。
1952年(昭和27年)
[編集]- 第五海洋丸の遭難が発生。当時活発な活動を繰り返していた海底火山明神礁の調査に向かった海上保安庁の測量船「第五海洋丸」が、明神礁付近で調査を行っている際に突如発生した海底火山噴火に巻き込まれて沈没。船長以下乗組員22名、学術調査員9名、計31名全員が死亡[30]。
- 静岡県の漁船「福徳丸(64トン)」が宮城県塩釜港外の太平洋で沈没。死者21人[30]。
- 北海道の稚内沖で「日進丸」が定置網の引き上げに出航したまま行方不明になった。31名が乗り組んでいたが強風により沈没したものと思われる。
1953年(昭和28年)
[編集]- 米国の貨物船「チャイナベア号(8258トン)」と日本の水産指導船「白鳥丸(158トン)」が静岡県白浜沖の太平洋で衝突。これにより水産指導船が沈没して11名が死亡した[30]。
- 福島県のカツオマグロ漁船「みどり丸(98トン)」が宮城県の金華山沖で消息を絶った。海上保安庁だけでなく在日米軍の協力も得て海難地点付近を捜索したが「みどり丸」のものと思われる釣竿や魚を入れる道具しか発見できないまま8月8日に捜索を打ち切った。乗員51名全員が行方不明[30]。
1954年(昭和29年)
[編集]- 北海道で荒天のため小型漁船などの連続遭難事件が発生。3日間に沈没17隻、大破11隻、中破29隻、小破21隻、座礁39隻を出し、死者・行方不明者の合計は37名にも及ぶ事態となった。
- 水産庁の監視船、第3黒潮丸が南鳥島南方で消息を絶った。乗組員19名全員が行方不明[30]。
- 翌10日にかけて急速に発達する低気圧(メイストーム)が北日本を通過し、北海道根室市近海で操業中のサケ・マス漁船など409隻が遭難。うち56隻が沈没・47隻が行方不明となり、乗組員約1000人が行方不明となった。低気圧通過後、巡視船やフリゲート艦による大規模な捜索が行われたが、遺体発見は3名にとどまった[30]。
- 青森県八戸港近くの日之出岩に漁船「第一盛喜丸(33トン)」が衝突して大破。乗組員16人が行方不明[34]。
1955年(昭和30年)
[編集]- 北海道根室市の納沙布岬沖で漁船「第八東丸(57トン)」が転覆。乗組員14名全員が死亡・行方不明となった。
- 1月7日
- 大阪港第3埠頭に停泊中だった関西汽船の「にしき丸(1,850トン)」から出火。その後、消火活動が始まったが消防の放水を浴びてバランスを崩して転覆・沈没した。出火の原因は船員の寝室にあった石油ストーブの火の不始末と考えられた。死者や怪我人はなかった。
- 青森県の尻屋崎の沖合いで大阪府大阪市の五大光商船所属の貨物船「大玄丸」(918トン)が浸水し、SOS信号を発信しながら沈没。乗組員29名が行方不明となった。
- 長崎県長崎市沖合で「第6あけぼの丸」と韓国船が衝突。乗員21名が行方不明[34]。
- 北海道の小樽港の沖合いで小樽石油海運のタンカー「第五葵丸」が時化で沈没。
- 和歌山県潮岬の南方海上で、台風28号の影響により遠洋マグロ漁船3隻が遭難。乗組員62名が行方不明[34]。
- 青森県八戸市浜市川の海岸で貨物船「反田丸(1300トン)」が座礁、沈没。乗組員21名が救助されたが10名が死亡。強風により操舵機が故障したことによるもの[34]。
1956年(昭和31年)
[編集]- 北海道岩内町沿岸で、悪天候が原因の漁船の大量海難事故が発生。38名死亡[35]。
- 北海道択捉島の沖合で底引き網漁船「明神丸(59トン)」が猛吹雪のため沈没。14名死亡[34]。
- イタリア客船「アンドレア・ドーリア(29,083トン)」と、スウェーデン客船「ストックホルム(12,165トン)」が濃霧の中で双方ともレーダーを過信し、20ノットの高速で航行中にアメリカ・マサチューセッツ州ナンタケット島沖で衝突。「アンドレア・ドーリア」は沈没し、双方で55名死亡。
- 伊豆大島沖合で漁船「第16漁吉丸(64トン)」が救難信号を出した後に消息を絶つ。20名が行方不明[34]。
1957年(昭和32年)
[編集]- 瀬戸内海の定期客船であった「第5北川丸」が、定員の3倍超の乗客を乗せて生口島瀬戸田港から尾道港に向け出航したところ、途中の暗礁に座礁・転覆し、死者・行方不明113名を出す惨事になった。海難審判では船長の職務上の過失に加え、運航会社による管理が不適当であったとされた。
- 宮城県金華山沖合で漁船「八崎丸(49トン)」の機関室付近から出火して沈没。乗組員23名のうち13名が死亡[34]。
- 沖縄県南大東島南東約519km沖合で「第17瑞宝丸(56トン)」が台風19号の影響により、緊急通信を残したまま消息を絶った。乗組員19名が行方不明[34]。
1958年(昭和33年)
[編集]- 紀阿連絡航路の旅客船「南海丸」が和歌山市に向け徳島県小松島市から出航したところ、悪天候に遭遇したため紀伊水道沼島沖で沈没[36]。乗員乗客167名全員が死亡・行方不明になった。生存者がいないため沈没までの詳細な過程は不明である。
- 1月26日
- 福島県小名浜港外で漁船「第2大正丸(35.5トン)」が防波堤に衝突して沈没、乗組員14名が死亡。悪天候のため港へ緊急避難する途上であった[36]。
- 大分県上浦町の沖合で東海海運の貨物船「津久見丸(820トン)」が転覆後に沈没。乗組員31名のうち12名が死亡した。船は硫黄鉱石を積んで津久見港に向かっている最中で、舵を左に切ったまま転覆した[36]。
- 青森県八戸市の北東約32kmの沖合で漁船「第16妙義丸(35トン)」が沈没。近くにいた漁船により10名が救助されたが、17人が行方不明[36]。
- 千葉県白浜町の東約96kmの沖合でマグロ漁船「第18瑞宝丸(96トン)」と「第5大徳丸(40トン)」が台風27号の暴風雨に巻き込まれて消息を絶つ。乗組員32名が行方不明[36]。
- 北海道南西海域でイカ釣り漁船「交洋丸(7トン)」「幸生丸(5トン)」「旭丸(2.5トン)」が暴風雨のため転覆、3名が死亡、15名が行方不明[36]。
1959年(昭和34年)
[編集]- 三重県大王崎沖合でマグロ漁船「第5優光丸(60トン)」が激浪に舵を折られて沈没。乗組員20名死亡[36]。
- 1月18日
- 千葉県野島崎沖合でマグロ漁船「第11進漁丸」が激浪を受けて沈没。乗組員18名死亡[36]。
- 四国沖合(詳細箇所不明)で漁船「第18吉祥丸(トン数不詳)」が転覆して沈没。乗組員36名全員が死亡[36]。
- 4月6日 - 四・六突風
- 北海道羅臼村の沖で、突風により漁船16隻が沈没、死者7名・行方不明者82名。
- 千葉県野島崎の東約750kmの洋上で漁船「第12長栄丸(トン数不詳)」が沈没。乗組員22名が死亡[36]。
- 千葉県銚子の一ノ島灯台付近で茨城県の漁船「第5幸辰丸(32トン)」が高波を受けて転覆・沈没。乗組員35名のうち28名が死亡。
- 千葉県野島崎沖合で漁船「第5八幡丸(トン数不詳)」が消息を断つ。乗組員19人が死亡[36]。
1960年代
[編集]1960年(昭和35年)
[編集]- 北海道から東北地方で暴風雪。船舶沈没6隻、船舶座礁5隻、船舶大破18隻、行方不明3隻により死者・行方不明者60人[37]。
- 津軽海峡東方で対潜訓練中の海上自衛隊の護衛艦2隻、「あけぼの」と「いなづま」が、操船ミスで衝突し2人が死亡、2人が負傷した。なお6月15日には修理のため函館どっくの岸壁に停泊中の「いなづま」で室内での清掃作業に用いたガソリンへの引火による爆発事故が発生。3人が死亡、重軽傷6人[37]。
- 福島県いわき市の沖合でマグロ漁船「第1成田丸(トン数不詳)」が操業中に消息を絶つ。12月26日に乗組員12人全員を死亡と断定[37]。
1961年(昭和36年)
[編集]- 宮城県の金華山沖で東京の太洋海運所属の貨物船「第五太平丸(900トン)」が積荷の荷崩れが原因で沈没。乗組員25名は沈没直前に救命ボートに乗り移って脱出、全員生還した。
- 岩手県釜石市のサケマス流し網漁船「第6明神丸(トン数不詳)」が消息を絶つ。乗組員17人が死亡[38]。
- 岩手県の三陸沖でギリシャ船籍の貨物船「アトランチック・サンライズ(14,408トン)」と大洋漁業の捕鯨船「第7文丸(391トン)」が濃霧による視界不良の中で衝突。「第7文丸」は沈没して乗員23名のうち7名は救助されたが、16名死亡[38]。
- 北海道の広尾港を出港した刺し網漁船「第18雲浦丸(53トン)」が襟裳岬東南35キロでバラバラとなった船体の破片が発見された。状況から他の船と衝突して沈没したものと思われたがぶつけた相手の船は判らなかった。この事故により乗組員14名全員が行方不明となり全員が死亡したものとされる。
- 岡山県玉野市の沖合でタグボート「児島丸(104トン)」と貨物船「八汐山丸(1万1702トン)が衝突。児島丸は沈没し、乗組員3名は救助されたが、8名は死亡した[38]。
- 千葉県の銚子沖30キロの太平洋で茨城県の漁船「第6政豊丸(30トン)」が貨物船「玉川丸(6,844トン)」と衝突し、「第6政豊丸」は転覆・沈没。乗組員12名のうち9名が死亡した。
- 東京湾の各所にて強風のため遊漁船や小型の釣り船10隻が沈没。釣り客ら11名が死亡、13名が重軽傷を負った[38]。
- 新潟県新潟市沖の日本海で長谷部海運のタンカー「第18八幡丸(452トン)」が転覆。乗組員のうち2名が死亡、9名が行方不明。
- 韓国の済州島の北西約370キロの海上で漁船「第8山田丸(92トン)」が突然の横風を受けて沈没。乗組員13名のうち3名は救助されたものの10名が行方不明。
- 12月12日
- 岩手県釜石市のマグロ延縄漁船「第15長栄丸(トン数不詳)」、同「第3鷹丸」が消息を絶つ。乗組員33名が死亡[38]。
1962年(昭和37年)
[編集]- 徳島県海南町の遠洋マグロ漁船「第2協漁丸(69トン)」が消息を絶つ。乗組員15名が死亡[39]。
- 屋久島安房港の南海上でマグロ漁船「第1佐多丸(95トン)」が強風と高波のために沈没。乗組員15名は死亡したが、船長は約50時間漂流後にアメリカ軍の舟艇に救助された[39]。
- 神奈川県川崎市の京浜運河を航行中の出光興産所有の小型石油タンカー「第一宗像丸(1,972トン)」が、ノルウェー船籍の大型タンカー「タラルド・ブロビーグ(21,634トン)」に衝突。「第一宗像丸」の積荷のガソリンが炎上し、付近を航行していた「太平丸(89トン)」と「宝栄丸(62トン)」も巻き込まれて炎上、4隻で41人が死亡。海難審判では「第一宗像丸」の船長と「タラルド・ブロビーグ」の水先人が見張りを疎かにしていたためとされたが、狭い運河に揮発性の高い積荷を満載した船舶が過密航行していることも原因のひとつであった[40]。
- 青森県佐井村の西約1.5kmの沖合で底曳網漁船「第13妙力丸(40トン)」が沈没。乗組員13名の内、死者・行方不明者12名[39]。
1963年(昭和38年)
[編集]- 兵庫県神戸市和田岬沖で貨物船「りっちもんど丸(9,547トン)」と鳴門・阪神間の定期旅客船「ときわ丸(238トン)」が衝突。「ときわ丸」は衝撃で沈没し乗員7人と乗客40人が死亡し3人が負傷した。海難審判では「りっちもんど丸」船長の職務上の過失が主とされたが「ときわ丸」側にも過失があったと認定された。
- 東京湾内で海上自衛隊護衛艦「てるづき」の右舷に貨物船「賀茂春丸」の船首が衝突し、自衛官5人が死亡。
- フィリピンからラワン材を運搬していた「洞南丸(4,815トン)」が和歌山県潮岬沖[要出典]で遭難。乗員33人が死亡・行方不明。荷崩れにより転覆の危険があるため総員退避すると通信があったことから[要出典]、荷崩れで横倒しになり沈没したとみられている。また、6月12日の衆議院運輸委員会で「『洞南丸』が戦時標準型貨物船(1945年(昭和20年)5月29日に三菱造船長崎造船所で進水)であったことも事故原因の一因ではないか」との指摘がなされた[44]。
- 岩手県宮古市のサケマスはえなわ漁船「第3宝運丸(39トン)」から火災発生。乗員16名のうち4名焼死。6名火傷。
- 北海道の松前町沖にて兵庫県神戸市の正向海運所属の貨物船「加明丸(998トン)」が積荷の硫化鉱の荷崩れが原因で沈没。死者20名。
1964年(昭和39年)
[編集]- 青森県の下北半島沖にて広島県豊田郡安芸津町(現:東広島市)の進徳海運所属の貨物船「第二進徳丸(757トン)」が積載量を超えた荷物を積んで出航し、また時化にあったことにより沈没。乗組員11名のうち一等航海士1名は救命ボートにより脱出に成功して生還したが両手足に凍傷を負った。残り10名は死亡行方不明となった。
- 午後9時頃(日本時間: 午後8時頃)オーストラリアのニューサウスウェールズ州ジャービス湾特別地域にてオーストラリア海軍所属の空母「メルボルン」(19,000トン)と駆逐艦「ヴォイジャー」(2,800トン)が衝突して約3時間後に「ヴォイジャー」が沈没。死者82名。
- 北海道小樽市の沖合いで底引漁船「第三豊善丸(82トン)」が消息を絶ち、乗組員17名が行方不明となった。
- 3月15日午前9時頃
- ギリシャ船籍の貨物船「マリア・G・L(7,238トン)」がアメリカのロングビーチから横浜港へ肥料を運んでいたところ、千葉県勝浦市布良鼻の沖で座礁して動けなくなった。またこのあと「マリア・G・L」を救助するため現場へ向かったアメリカ船籍の貨物船「ダディビレジ(8,245トン)」も座礁してしまった。そして2日後の17日になって「マリア・G・L」は船体が真っ二つに割れて沈没。乗組員は沈没前に全員救助されて無事だった。「ダディビレジ」も船体が危なくなったので全員が退船するなどした。
- オーストラリア西岸のインド洋で操業していた三重県志摩郡浜島町(現:志摩市)のマグロはえ縄漁船「第三幸喜丸(179トン)」が行方不明となった。僚船やオーストラリア空軍などにより捜索が行われたが手かがりが得られず全員遭難したものと判断され、4月3日に捜索は打ち切られた。乗組員24名全員行方不明[47]。
- 5月6日午前0時30分頃
- 5月11日午後4時過ぎ頃
- 鹿児島県薩摩半島の西で台湾船籍の貨物船「チュンカイ(1,873トン)」の積荷の火薬が爆発してSOSを出す間もなく沈没。翌12日の午前0時30分頃に同海域を通りかかったギリシャ船籍の貨物船「バアン(6,729トン)」が漂流する「チュンカイ」の救命ボートを発見して佐世保海上保安本部へ連絡したため、事故が発覚した。このあと現場海域で大がかりな捜索が行われ、救命イカダで漂流する乗組員などを救助したが、全乗組員45名中24名については行方不明のまま5月13日の日没をもって捜索は打ち切られた[49]。
- 5月15日午後9時15分頃
- 北海道亀田郡椴法華村(現:函館市)沖の噴火湾で日魯漁業の鮭鱒工船「協宝丸(7,158トン)」と、北海道漁業公社の「第三海鳳丸」(84トン)が衝突し「第三海鳳丸」は転覆・沈没した。「第三海鳳丸」は衝突と同時に転覆してしまい、また夜間で海が暗かった事もあり「協宝丸」はすぐに救助作業を始めたものの1名も救助する事はできなかった。また朝になり海上保安庁の船も付近を捜索したが生存者の発見は出来ず、「第三海鳳丸」の乗組員21名の命は絶望とされた[50]。
- 北海道襟裳岬東南東約240kmで、岩手県大船渡市のサケマス流網漁船「第八成徳丸(39トン)」が沈没。釧路海上保安部の巡視船「宗谷」が救助に向かったところ6月5日に乗組員17名中13名を乗せた救命ボートを発見。しかし、13名全員が死亡していた[51]。
- 東京湾を航行していた館山市発竹芝桟橋行の水中翼船「バカンス号(39トン)」が浮遊していた障害物と接触して急停船。この事故で乗客51名のうち23名が座席から放り出されるなどして負傷した。負傷した乗客は竹芝桟橋に入港後、すぐさま病院へ搬送されるなどした。東京水上署が調べたところ船体両側にある水中翼が二つとも損傷していたことから障害物は水面すれすれに浮かんでいた巨大な丸太などではないかと推察されたが、結局のところ何がぶつかったのかは判らなかった[52]。
- 愛知県常滑市沖の伊勢湾でイギリス船籍の貨物船「イースタンテイク(11,222トン)」と、大阪市の日化汽船所属のケミカルタンカー「日化丸(339トン)」が衝突し、「日化丸」はまもなく沈没し乗員9名全員が死亡した。
- 東京都羽田沖の東京湾で大阪商船三井船舶所属の貨物船「はわい丸(9,332トン)」と、静岡県清水市の砂利運搬船「第一大伸丸(733トン)」が衝突。この事故で「第一大伸丸」はまもなく沈没し乗組員12名中8名は「はわい丸」などに救助されたが、4名が行方不明となった。
- 北海道茅部郡南茅部町(現:函館市)のイカ釣り漁船「美保丸(1.54トン)」が漁に出たまま行方不明となった。海上保安庁の巡視船が捜索したところ椴法華村の沖合いで転覆して船底を上にして漂流している「美保丸」を発見。しかし乗組員4名は発見されなかった。
- 千葉県富津岬の沖合いで個人所有のヨットが荒天のため転覆し乗っていた会社員2名が死亡。
- 兵庫県高砂市の沖合いで砂利運搬船「第二天祐丸(198トン)」が強風に煽られて横転し沈没。乗組員5名中1名が死亡。
- アメリカのニュージャージー州沖の大西洋でイスラエル船籍の客船「シャローム(24,500トン)」と、ノルウェー船籍のタンカー「ストルトダガリ(12,723トン)」が衝突。この事故で「ストルトダガリ」は船体が2つに裂けて沈没、乗組員43名のうち16名が死亡した。また「シャローム」は船首部分を大破したものの自力航行が可能な状態で怪我人を多数乗せたままニューヨーク港まで自力で戻った。
- 12月6日午後6時半頃
- 北海道稚内市にある結城水産所属のタラ漁船「第11幸福丸(105トン)」が千島列島・阿頼度島の北方約26kmのオホーツク海で火災発生。乗組員17名のうち8名は逃げ遅れて焼死。9名は付近で操業していた宮城県石巻市の漁船に救助されたがうち2名は大火傷の重傷を負った。
- アフリカのアンゴラ沖の大西洋で福岡県北九州市の日本水産戸畑支社所属のトロール漁船「宇治丸(535トン)」が行方不明となった。その後、同水産会社所属の漁船が「宇治丸」のものと思われる浮きや木箱、海面に浮く重油などを発見した。乗組員33名は1名の遺体が発見されたが残りの者は全員が行方不明となった。その後、船体は陸地からすぐ近くの深さ85mの海底に沈んでいるのが魚群探知機により発見された。
1965年(昭和40年)
[編集]- 北海道の日本石油精製室蘭製油所にてノルウェー船籍の油槽船「ヘイムバード(ハイムバルト、35,355トン)」が桟橋に衝突し漏れた原油に引火して爆発、乗組員10名が死亡した。
- 伊豆半島東沖合でタンカー「明興丸(明和海運 995トン)」とアメリカの貨物船「アリゾナ(12711トン)」が衝突。明興丸が沈没して2人救助、21人が行方不明[55]。
- マリアナ諸島アグリハン島の島陰で昭和40年台風第29号を避けていた日本のかつお・まぐろ漁船群が、台風の予想外の針路変更と急発達のため暴風圏内に巻き込まれた結果、6隻沈没、1隻が陸に打ち上げられて大破沈没し、死亡及び行方不明者209名の大量遭難となった。
- バハマ諸島沖でクルーズ客船「ヤーマス・キャッスル(乗客376名、乗員176名、計552名が乗船)」が火災を起こして沈没。乗客88名、乗員2名が死亡。
1966年(昭和41年)
[編集]- 神奈川県の三浦半島東側の東京湾でタンカー「第七大手丸(365トン)」と台湾の貨物船「チャンキンビクトリア(7,305トン)」が衝突。「第七大手丸」が沈没して7名が死亡。
1967年(昭和42年)
[編集]- 兵庫県の神戸港沖で午後11時30頃に兵庫県飾磨郡家島町の個人が所有する小型砂利運搬船「住徳丸(158トン)」とリベリア船籍の貨物船「オリエンタル・バンカー号(7,993トン)」が衝突。「住徳丸」は衝突直後に沈没し乗組員4名全員が行方不明となった[56]。
- 午後10時頃、韓国・釜山の西方30kmの洋上で乗員乗客87名を乗せたフェリーボート「韓1号(140トン)」が韓国海軍の軍艦「忠武」と衝突し「韓1号」はまもなく沈没した。すぐに「忠武」が救助に当たったが乗員乗客15名が死亡し60名が行方不明となった[58]。
- 長崎県の対馬沖で島根県浜田市の浜田漁業生産組合所属の底引網漁船「第十五長栄丸(49トン)」が行方不明となった。海上保安庁の巡視艇「なつづき」「たつぐも」及び、巡視船「くろかみ」「へくら」や、第十五長栄丸の僚船3隻が捜索に当たったが、同日夜になり対馬の神埼の東南東20kmの場所で第十五長栄丸のものと思われる魚箱や木片か多数浮遊しているのを地元の漁船が発見し、遭難は確実視された。船長以下全12名が行方不明となった[59]。
- 千葉県千葉市の千葉港の沖に停泊していた浚渫船「第三墨田丸(70トン)」から午後9時30分頃に火災発生。乗組員8名のうち3名が焼死し、5名が火傷を負った。出火原因は暖房用ストーブのガスが船内に充満して引火したものと推定された[60]。
- 午後4時頃、神奈川県川崎市の川崎港で、東京都千代田区のジャパンライン所属のタンカー「瑞栄丸(31,288トン)」と、愛媛県松山市の興栄海運所属のタンカー「第十五永進丸(993トン)」が衝突。この事故で「第十五永進丸」は左舷に直径2mあまりの裂け目が出来てそこから灯油200キロリットルが海面に溢れた。幸いに火災事故などはおきなかった[61]。
- イギリス沖で、リベリア船籍の大型タンカーである「トリー・キャニオン号(en:SS Torrey Canyon、61,263トン、載貨重量トン数(最大)118,285トン)」が座礁。同船はクウェート産の原油を満載しており、船体破損で船外に流出した。船体は3月26日に二つに破断。英国政府は船内に残った原油の流出を避けて燃焼させるために船体を爆破、3月30日に沈没した。流出した原油は8万トン以上に及び、タンカー事故で広範囲に原油が流出して海洋を汚染した最初の事故となった。これをきっかけに国際海事機関(IMO)は1969年に「油による海水の汚濁の防止に関する国際条約」を改正、さらに1973年にこれを発展的に強化した海洋汚染防止条約(マルポール条約)が採択されるに至った。
- このころから世界中で大型タンカーが建造され始めたが、当初知りえなかった現象(静電気の発生、それが残油に引火)により、多くの船が爆発炎上している。日本のタンカー及び日本に寄港したタンカーにおいても、1965年・サウジアラビアにおける海藏丸火災事故(同国ラス・アル・カフジに入港中のタンカー「海藏丸(20,949トン)」が、船内に侵入・滞留した石油気化ガスに引火して爆発炎上し14名が死亡)や、室蘭港におけるヘイムバード火災事故(ノルウェー船籍のタンカー「ヘイムバード(35,355トン)」が室蘭港への接岸に失敗し、原油を大量に流出させた所へ曳船のエンジンの火の粉もしくは火花から石油気化ガスに引火。同船は大爆発を起こして27日間にわたって燃え続け、10名が死亡すると共に一時は周辺住民に避難命令が出された)など、大規模な炎上事故が起こっている。
1968年(昭和43年)
[編集]1969年(昭和44年)
[編集]- 野島崎南東沖合を航行中の撒積貨物船「ぼりばあ丸(33,768トン)」の船首部分が突然折損脱落して航行不能となり、約1時間後に沈没。長沢吉三郎船長ほか乗組員30人が行方不明となった。
- アフリカ西海岸ダカールの沖合でシェル石油所有の大型タンカー「マルベッサ(207000トン)」が火災を起こし翌日沈没。沈没した船の中では過去最大級。タンカーは同年に日本の石川島播磨重工が建造して引き渡したばかりのものであった[63]。
1970年代
[編集]1970年(昭和45年)
[編集]- 静岡県石廊崎沖合で東邦汽船所属の貨物船「東庄丸(353トン、乗員7人)」が大波を受け、ハッチボードから浸水して沈没。3人が救助されたが、1人死亡、3人行方不明[65]。
- 千葉県野島崎沖東南東1200kmの太平洋上でリベリア船籍のタンカー「ソフィア・P(18,620トン、乗員29人)」の船体が折れて前部約1/3が沈没。船長を含む7人が死亡、22人が近隣を航行中のコンテナ船に救助された[66]。
- 福島県小名浜港で低気圧による波浪を避けるため、港内に停泊していた三光汽船の貨物船「空光丸」(18,147トン)が走錨を起こして沈没、事故の責任を取る形で船に残った一等航海士を含め15人が死亡。また、港の入り口に停泊していた新潟海運運送の貨物船「弥彦丸」(3000トン)の錨が切れ、港内に吹き寄せられて船首を大破。その他、他の船も岸壁に打ち付けられるなどの被害が出た。同年2月、事故を受けて全日本海員組合は港内の防波堤の建設が軽視されているとして、運輸大臣にあてて警告書を出している[67]。
- 静岡県の田子ノ浦港を出航した合洋海運の砂利運搬船「第一合洋丸(349トン、乗員5名)」が行方不明となったと船主より海上保安庁に届出があった。1月31日以降同船と連絡が取れておらず太平洋上で沈没したものと推察された。
- 千葉県犬吠埼の沖合い約300kmの太平洋上で第一中央汽船の鉱石運搬船「かりふぉるにあ丸(61,000トン、乗員29名)」が、船首部分を破損して浸水をおこして沈没。乗組員のうち24名は無事に救助されたが、5名が死亡。住村博船長(当時45歳)は船長としての責任を取るべく「船と運命を共にする」と言い残し、救助される事を拒否。ブリッジより乗組員へ別れを告げ、そのまま沈没した船と運命を共にした。
- 当時の船員法第12条に「船長の最後去船義務」という項目があり「旅客・海員その他船内にある者を去らせた後でなければ、自己の指揮する船舶を去ってはならない」との条文があったが、これが前出の「波島丸」の事故と合わせ「船長に殉職精神を植え付けているのではないか」との批判が巻き起こり、国会でも大きな論争となった。同年5月15日に船員法が一部改正され、第12条が削除されるきっかけとなった。
- 福島県いわき市の沖合90km付近でギリシアの貨物船「マリア・G・ゲオルギウス」(8799トン)といわき市の底引き網漁船「第18大洋丸」(96トン)が衝突、「第18大洋丸」が沈没した。「マリア・G・ゲオルギウス」側によって2人の乗組員が救助されたが10人が行方不明[68]。
- クルーズ客船「アローザ・スター(7,114トン、事故時の船名は「ラ・ジェニーレ」)」が荒天でカリフォルニア州の海岸に座礁。この事故での死者はなかったが、後に侵入者が死亡。船は防波堤の一部となった。この船は「バハマ・スター」という船名であった1965年に「ヤーマス・キャッスル」の事故で救助を行っている。
- 旅客船「南営号(ナミョン号)」が、朝鮮海峡の対馬海峡西水道付近で過積載により転覆し沈没。326名が死亡。
1971年(昭和46年)
[編集]- 熊野灘で濃霧が原因の衝突事故が7件発生。浜野海運所属の貨物船「楽穂丸(499トン)」、藤村汽船所属の貨物船「光洋丸(498トン)」の2隻それぞれ別の衝突で沈没。一連の事故で死者・行方不明者10人[69]。
- 7月4日
- 新潟西港沖でリベリア船籍のタンカー「ジュリアナ(19124トン)」が荒天の為に座礁。6500トン(一説には7200トン)の原油が周囲に流出する。我が国の油流出事故で流出量が最大と言われる[72][73]。
1972年(昭和47年)
[編集]- 香港のビクトリア・ハーバーで洋上大学に改装中だった旧イギリス客船「クイーン・エリザベス(当時世界最大)」が火災により沈没。残骸は映画『007 黄金銃を持つ男』のロケにも使用された後に解体された。
1973年(昭和48年)
[編集]1974年(昭和49年)
[編集]- 豊後水道、水ノ子島灯台北西8.3km沖合でで三光汽船の貨物船「菊光丸(12291トン)」とパナマ船籍の貨物船「ウエスタン・スター(2999トン)」が衝突。ウエスタン・スターが沈没し、2人が救助されるも死者・行方不明者24人[75]。
- 和歌山県南端の潮岬沖でリベリア船籍の貨物船「オーシャン・ソリバーン」が高知県のマグロ漁船「第十一昌栄丸」に衝突、「第十一昌栄丸」は転覆・沈没。死者行方不明14名。
- LPG・石油タンカー「第十雄洋丸」とリベリア船籍の貨物船「パシフィック・アレス」が東京湾木更津港沖で衝突して炎上した。死者33名。
1975年(昭和50年)
[編集]- スペリオル湖(五大湖、アメリカ合衆国とカナダの国境)を強風・雪の中航行中に貨物船「エドモンド・フィッツジェラルド(8,713トン)」が行方不明となり、その後沈んでいるのを発見された。
1976年(昭和51年)
[編集]- 宮崎県の細島港から広島県の広島港に向かっていた日本カー・フェリー(現:マリンエキスプレス)所属のフェリー「ふたば(1,933トン)」が山口県のミルガ瀬戸(諸島(もろしま)- 情島間)で、パナマ船籍の貨物船「グレート・ビクトリー(7,519トン)」と衝突し「ふたば」が沈没。「ふたば」の乗員28人と乗客58人のうち5人が死亡・行方不明となり車両24台も水没した。日本国内でカーフェリーで発生した初の人身死亡事故となった。
- 大分県佐伯市東方の豊後水道で回送中のタンカー「菱洋丸(52,157トン)」の船体が中央からV字型に折れる海難事故が発生。乗員62人(タンククリーニング業の作業員30人が乗船していたため通常より多い)は、3隻に救命ボートで脱出して全員無事。遭難当時は台風17号接近に伴ううねりがあった[77]ものの、タンカーの船体が真っ二つに折れるほどのものではなく原因の究明が行われた。1977年、横浜地方海難審判庁は海水バラスト船体中央に偏積したため、過大な静水中縦曲げモーメントに波浪の縦曲げモーメントが重畳して、上甲板中央部が座屈したものと判断している[78]。
- リベリア船籍のタンカー「アルゴ・マーチャント(en:MV Argo Merchant)」がアメリカ・マサチューセッツ州ナンタケット島沖で座礁。数日後に船体は破断し、積荷の燃料油29000キロリットル全量を流失、極めて深刻な海洋汚染を引き起こした。
- パナマ船籍の貨物船「デメター(2995トン)」が鹿児島県屋久島の早崎灯台北東約10kmの海域で救難信号を発信した後に沈没。破損した救命ボートが見つかったが乗員の姿はなく、台湾籍らの乗組員22人が行方不明[79]。
1977年(昭和52年)
[編集]- 貨物船とパナマ船籍のタンカー「アストロ・レオ」が愛媛県松山市沖合の釣島海峡で衝突。タンカーが爆発、炎上した。同船から1600kl以上の原油が流出、半分以上は火災により燃焼したが、残りは海峡内に広がった[81]。
1978年(昭和53年)
[編集]- 今治市東門町一、寿汽船所属の「第8福徳丸(342トン、野崎幸夫船長ら4人乗り組み)」は午後2時半過ぎ、セメント原料約600tを積んで香川県・直島町港を出港、福岡県・苅田町の三菱セメント苅田工場に向かったが、同4時頃、坂出港沖付近を航行中、船舶電話で「17日午前7時ごろ到着する」と苅田工場に連絡したのを最後に消息を絶った。寿汽船からの連絡で、第六管区海上保安本部は18日朝から巡視船20隻、飛行機3機動員して捜索を開始。23日朝からも捜索船を10隻に減らしたものの、飛行機3機を引き続き飛ばして捜したが手がかりは全くなかった。同本部では「遭難したとすれば海面に油が浮いたり漂流物が見つかる。全く謎の蒸発」と言った。予定を変更して上陸した形跡はなく、船内で何かが起きて外洋に出たという情報もない。
- 兵庫県の神戸港から宮崎県の細島港に向かっていた日本カー・フェリー(現: マリンエキスプレス)所属のフェリー「さいとばる(6,574トン)」が、愛媛県の来島海峡で韓国のタンカー「チャン・ウォン(3,409トン)」と衝突して転覆沈没した。乗用車69台とトラック69台とコンテナ4個と多数の積荷が水没する甚大な被害が生じたが、幸い深夜かつ強潮流の悪条件の中から乗員・乗客245人全員無事に救出された。
1979年(昭和54年)
[編集]- カリブ海トバゴ島沖でタンカー「アトランティック・エンプレス」と「エーゲアン・キャプテン」が衝突・炎上し、大量の原油が流出。「アトランティック・エンプレス」は8月2日に沈没。
1980年代
[編集]1980年(昭和55年)
[編集]- 野島崎東南東沖合約800海里(約1,500km)を航行中のばら積み貨物船「尾道丸(全長226.4m、33,833トン)」が、船首方向からの強いうねりの中、波高20mほどの大波に突っ込んだ際に船首部分が上方に折損(スラミング現象による)、その後脱落して航行不能となった。「尾道丸」の前方を航行していた鉱石運搬船「だんぴあ丸」が引き返し、翌1981年(昭和56年)1月1日に「尾道丸」乗組員29名全員を無事救助する[82]。
1981年(昭和56年)
[編集]- 下甑島付近を航行中の貨物船「日昇丸(2,350トン)」にアメリカ海軍のジョージ・ワシントン級原子力潜水艦「ジョージ・ワシントン」が海中から急浮上したため衝突、「日昇丸」は船底を破壊されて沈没した。乗員2名が死亡。なお「ジョージ・ワシントン」が救助せずに現場海域から離れたことに対し、非難された。
- 旧ソビエト社会主義共和国連邦のウィスキー級潜水艦「U-137」が、航法の誤りからスウェーデンの領海を侵犯して座礁。死傷者はなかったが、事故発生場所がスウェーデンの軍港付近であったこともあり国際問題に発展した。
12月31日-漁晴丸プロパン爆発事故
ニューギニア東方海上を航行中の「漁晴丸(69トン)」が船内でプロパン爆発。3人死亡、4人けが。(データが現時点これほどしかないので追記お願いします。)
1982年(昭和57年)
[編集]- 第二十八あけぼの丸がベーリング海で遠洋底引網漁業に従事中、原料置場の設備が破損して置いてあった大量の魚が流動化、船体動揺と魚などの流動化とが相まって激しく横揺れしたときに海水が船内に進入、沈没。乗組員33人中、24人が行方不明、8人が死亡した。
1983年(昭和58年)
[編集]- 旧ソ連のウリヤノフスク近郊でヴォルガ川に架かる橋(ru:Императорский мост)の橋脚に客船「アレクサンドル・スヴォーロフ(Александр Суворов、定員400人)」が衝突。橋脚が移動して貨物列車が脱線し、この船の上に転落して貨車の積荷が船内に流れ込んだ。少なくとも176人が死亡。
1984年(昭和59年)
[編集]- 2月15日
- ベーリング海で操業中、猛吹雪となったために支えの態勢をとっていた「第十一協和丸(24人乗)」と、他の船に引き渡すオブザーバー4名を乗せた「第十五安洋丸(25人乗)」が100m程度の視界の中で衝突、死者14名、行方不明者2名、負傷者5名を出す事故となった。
1985年(昭和60年)
[編集]- カムチャツカ沖で操業中の「第五十二惣寶丸」が漁獲物を整理していたところ、船尾方向へ著しく沈み込み、大きなうねりで左舷側へ大きく傾斜した同船へ海水が流入して沈没。乗組員22名中、死者行方不明者20名。
- 鹿児島県串木野市(現:いちき串木野市)の瀬渡船「開洋丸」が沖へ出たところ、大波を受けて転覆、乗員乗客26名全員死亡または行方不明。定員オーバーが原因とみられる。
1986年(昭和61年)
[編集]- 撒積貨物船「ピョートル・ワセフ(18,604トン、南日本造船建造)」が客船「アドミラル・ナヒーモフ(17,053トン、旧「ベルリン」)」に衝突し「アドミラル・ナヒーモフ」が沈没。死者423人。
1987年(昭和62年)
[編集]- 銚子港より約十数km沖で乗員22名の青森県八戸市の福島漁業所属のイワシ漁船「第65惣宝丸」(80トン)が強い横風と波高5mもの高波により沈没。船体は2月27日に引き上げられたが、この沈没で死亡8名、不明7名となった。
- フェリー「en:MS Herald of Free Enterprise」がベルギー北西部ブルッヘのゼーブルッヘ港を出港直後に、閉じ忘れた車両甲板扉からの浸水により転覆。193名が死亡。
- フィリピン客船「ドニャ・パス号(2,640トン、旧「ひめゆり丸」)」とガソリンを積載した小型タンカー「ヴェクター(640トン)」が、フィリピン・タブラス海峡で衝突し炎上、双方が沈没。正確な乗船数は不明だが、少なくとも1576人以上死亡、行方不明。4376人が死亡したともされており、平時における最悪の海難事故と言われている。
1988年(昭和63年)
[編集]- アイルランド向けに輸出される日本製自動車5458台を積載した自動車運搬船「麗神(58,000トン)」がポルトガル沖で座礁。後日、この船の撤去には時間がかかり、また積荷の自動車が錆びて商品価値を失ってしまった事などにより積荷の新車ごと船ごと深度2000mの地点まで曳航した後に海に沈める事を提案、ポルトガル政府もこの案に合意した事により実行された。しかし、後日これは重大な環境破壊であると日本国内はもとより外国でも批判が高まった。
- 大阪港中央突堤北岸壁に停泊していたソ連船籍の貨物船「プリアムリーエ(4,870トン)」が左舷中央客室付近から出火しロシア人旅行客の11名が死亡。船自体は消火活動により17時間後に鎮火、沈没は免れた。
- ペルーのカヤオ港外でペルー海軍所属の潜水艦アトゥル(事故時の艦名はパコーチャ)に日本の遠洋マグロ漁船「第8共和丸」が衝突して沈没、艦長ら8名が死亡した。なお、アトゥルは元は米海軍バラオ級潜水艦で1944年に「浅間丸」を撃沈した潜水艦であった。
1989年(平成元年)
[編集]- 原油タンカー「エクソン・ヴァルディーズ」がアラスカ州プリンスウィリアム湾で座礁、原油が流出した。流出量は推定で1080万ガロンとされ、周辺環境に重大な被害を与えた。
- 8月20日:午前1時45分 - マーショネス号転覆沈没事故
1990年代
[編集]1990年(平成2年)
[編集]- フェリー「en:MS Scandinavian Star」で火災。158名が死亡。何者が廊下の壁に火をつけたところ、装飾用の壁紙が有毒ガスをまき散らしながら燃え広がったのが原因[83]。放火犯は不明だが、検証番組「衝撃の瞬間」では火災に巻き込まれて死亡した放火4件の前科があるデンマーク人であることを示唆している。
1991年(平成3年)
[編集]- 8月
- 12月
- 日本からグアムを目指すヨットレース『トーヨコカップ・ジャパングアムヨットレース'92』に参加していた「たか」が29日に悪天候の為に沈没した。乗員7名のうち6名がゴムボートで脱出したが、わずかな食料しかなかったため、漂流から27日目の1992年(平成4年)1月25日に発見されたときには生存者は佐野三治(当時31歳)のただ1名だけであった。佐野は同年秋に『たった一人の生還』(新潮社)[84]という題名で手記を出版した[85]。また、同レースに参加していた「マリンマリン」も同様に沈没して8名が死亡しており[86]、参加9隻のうち2隻が沈没し14名が死亡するという日本のヨットレース史上最悪の惨事となった[87]。2年後に、2隻の事故原因などを追った『ヨットが呑まれた』 (朝日新聞社会部いのちの海取材班、 朝日新聞社、1993/5/1)が出版された。
1992年(平成4年)
[編集]1993年(平成5年)
[編集]- タンカー「ブレア(en:MV Braer、リベリア船籍、ブレア社所有)」、英国シェットランド諸島沿岸にて暴風雨の直撃を受け転覆。乗員全員無事だったものの、船体ほぼ全部を損壊、沈没、重油流出。
- 韓国扶安郡沖の黄海で、フェリーが転覆し沈没。乗客乗員362人中、292人が死亡または行方不明。
1994年(平成6年)
[編集]- 北海道利尻島沖で操業中の漁船第五十八大東丸が、強風と高波を受けて転覆。乗組員16名中2名が行方不明。
- 客船「アキレ・ラウロ」が火災を起こし、3日後に沈没。「アキレ・ラウロ」は1985年10月にハイジャック(アキレ・ラウロ号事件)された船である。
1995年(平成7年)
[編集]1996年(平成8年)
[編集]1997年(平成9年)
[編集]- ロシア船籍のタンカー「ナホトカ」が波浪により船体を破断し、6240キロリットルのC重油が海上に流出、日本海沿岸各地の広い範囲に深刻な汚染。船長が死亡、乗組員は脱出。除去作業にあたったボランティアに5名の死者を出す二次被害が発生した。
1998年(平成10年)
[編集]- 択捉島沖で操業中の漁船第七十五神漁丸が、網を引き揚げる際にバランスを崩し開口部からの海水流入により転覆。乗組員15名中5名が死亡。2名が行方不明。
- 択捉島沖で操業中の漁船第三十一惣寶丸が、時化による水密扉開口部からの居住区等へ海水流入により転覆。乗組員15人中1名が行方不明となり後に遺体で発見される。
- マニラ-セブ島の定期航路「en:MV Princess of the Orient(13,599トン、Sulpicio Lines(フィリピン)所有、旧「さんふらわあ11」ブルーハイウェイライン)」が平成10年台風第7号の嵐の中を航行中に沈没し、死者51名、行方不明者216名を出した。直接の沈没原因は荷崩れであったが、フィリピンでの大幅なデッキ増設工事により船体が不安定になっていたとも云われる。
1999年(平成11年)
[編集]- クルーズ客船「サン・ビスタ(en:SS Galileo Galilei、旧「Galileo Galilei」)」がマラッカ海峡で機関室からの失火が原因で沈没。速やかな避難誘導が行われたため犠牲者は無し。このことが原因で運航していたクルーズ会社は倒産した。
- ベーリング海にて操業中の漁船第一安洋丸が大波を受けて浸水、転覆。乗組員36名の内12名が行方不明となり、後に1名が遺体で発見された。
2000年代
[編集]2000年(平成12年)
[編集]- ロシア海軍のオスカー型原子力潜水艦「クルスク」がバレンツ海において演習中、魚雷発射管室の爆発により沈没。乗員118名全員が死亡。
- 北海道浦河港沖で、操業中の漁船第五龍寶丸が上甲板下の漁獲物処理場からの浸水によりバランスを崩し転覆。乗組員18人中14人が行方不明。
- フェリー「エクスプレス・サミナ(Εξπρές Σαμίνα) 」がエーゲ海のパロス島沖で小島に衝突し沈没。乗員・乗客81名が死亡。1名が同年11月に自殺。
2001年(平成13年)
[編集]- 貨物船「アマルガス(35,000トン)」がエンジントラブルにより航行不能となり、漂流。その後台湾墾丁国家公園の海域で座礁し重油が流出した。
- ハワイ州オアフ島沖で愛媛県立宇和島水産高等学校の練習船「えひめ丸」とアメリカ海軍の原子力潜水艦「グリーンヴィル」が衝突し、「えひめ丸」が沈没。「えひめ丸」の乗員35名中9名が死亡。
2002年(平成14年)
[編集]- 自動車運搬船「HUAL・ヨーロッパ(バハマ船籍、ノルウェー HUAL (en:Leif Höegh & Co) 社所有)」が、伊豆大島沿岸にて暴風雨の直撃を受け座礁。乗員24名は全員無事だったものの、船体ほぼ全部を損壊し火災が発生。航行不能および重油流出。
- 日立港で北朝鮮船籍の「チルソン号」が座礁して重油が流出、のちに船体は放棄された。船舶所有者側による保障措置が何らなされなかったことから、無保険船の日本寄港を制限する油濁損害賠償保障法(改正後の名称は船舶油濁損害賠償保障法)改正のきっかけとなった。
2003年(平成15年)
[編集]- 4月(中国における最初の報道が5月2日頃であり、実際の事故発生日時は4月とされる)
- 中国人民解放軍海軍北海艦隊所属の035型潜水艦(明級)通常動力型潜水艦の361号が「機械的故障」による原因により全乗員70名が死亡。遼東半島と山東半島の間に位置する内長山列島付近にて事故が発生したとされる。後に艦自体は回収され現役に復帰している。
- 福岡県沖の玄界灘にて操業中の日本漁船団に韓国船が漁船団からの再三の警告を無視して漁船団に突入して衝突。日本側の1名が死亡、6名が行方不明。
- その4日後、貨物船「コレックス・クンサン(韓国船籍)」が玄界灘にて、夜間の警戒不備により漁業取締船「からしま(水産庁所属)」に衝突。「からしま」は乗員全員無事だったものの、船体ほぼ全部を損壊して沈没。「コレックス・クンサン」は乗員全員無事であったほか損壊もなかった。
2004年(平成16年)
[編集]- 平成16年台風第18号により山口県下松市笠戸島に貨物船「トリ・アルディアント号」が座礁。インドネシア人船員22名全員が死亡。
2005年(平成17年)
[編集]- 北海道の根室市沖合いにて、サンマ漁船「第三新生丸(日本船籍)」とコンテナ船「ZIM・アジア(イスラエル船籍、ZIM社(イスラエル)所有)」が衝突。「第三新生丸」は乗員7名死亡し、船体はほぼ全部を損壊し沈没した。原因は「第三新生丸」の横切り船の航法不遵守(主因)と「ZIM・アジア」の警告信号不履行、横切り船の航法不遵守(一因)[89]。
- サウジアラビアからエジプトに向かって紅海を航行していた1400人乗りのフェリー「アル・サラム・ボッカチオ98(عبارة السلام 98) 」が、フェリーデッキに積載していた車両からの火災が原因で沈没し、1000名以上の死者・行方不明者を出した。多くの犠牲者を出した原因としては、悪天候のほか、老朽船であったことや建造後の改造により重心が極めて高くなっていたことが要因となり、消火活動中にバランスを崩して転覆したことが指摘されている。なお、生存者の証言によれば船長が真っ先に逃亡したとされる。
2006年(平成18年)
[編集]- 自動車運搬船「クーガー・エース(シンガポール船籍、55,000トン、商船三井)」が、アメリカ・アラスカ州のアリューシャン列島沖合いにて、暴風雨の直撃を受け転覆。乗員23名は全員無事だったが、船体はほぼ損壊ないものの80度に傾き横転し航行不能となる(重油流出なし)。積荷の乗用車4,703台(全てマツダ製)および小型トラック110台(全ていすゞ自動車製)が全損扱いとなり廃棄される。
- 三国屋建設所有のクレーン船が、禁止行為であるクレーンのブームを上げたままの航行を冒し、東京都江戸川区の江戸川河口付近に掛かる275kV送電線に接触。2系統の送電系統を両方とも切断したため首都圏の広範囲において長時間にわたり大規模な停電が発生した。事故による直接の死傷者は無し。停電により各種インフラなどが被害を受けた。
- 『スカンジナビア』として2005年3月まで静岡県沼津市西浦村木負で使用され、現存していたクルーズ客船では最古の「ステラ・ポラリス」が、伊豆箱根鉄道より建造国であるスウェーデンの企業に買収された後、中国・上海での改修工事の行うため8月31日に出航し航行中、和歌山県潮岬沖3km(水深72m)の海上で沈没。乗船者はおらず死傷者はなかった。
- 茨城県鹿島港外にてパナマ船籍の貨物船「ジャイアントステップ号」が急速に発達した低気圧による暴風のため走錨して座礁し船体を切断。10名死亡または行方不明。ほぼ同時・同位置にて「オーシャンビクトリー」「エリダエース」も座礁し、連続事故となった。同日には、女川港沖でサンマ漁船「第七千代丸」が高波をかぶって機関停止し座礁・横転。16名死亡または行方不明となる事故も発生している。
- 海上自衛隊の練習潜水艦「あさしお」が宮崎県沖で訓練航行中、パナマ船籍の貨物船「スプリング オースター」と接触。「スプリング・オースター」は船底部にわずかな亀裂と少量の浸水を起こし「あさしお」は縦舵を損傷するも、双方とも負傷者はなかった。なお「スプリング・オースター」側は当初、潜水艦と接触したことに気付かなかったという。また、一部の専門家によれば「あさしお」の損傷は『沈没してもおかしくない』ほどであったともされる[90]。
2007年(平成19年)
[編集]- アメリカ海軍の原子力潜水艦「ニューポート・ニューズ」がホルムズ海峡にて、警戒不備によりタンカー「最上川(日本船籍、160,000トン、川崎汽船所有)」に衝突。「最上川」は乗員全員無事だったものの船底部を損壊し航行不能となった(重油流出なし)。「ニューポート・ニューズ」は乗員全員無事で損壊および放射能漏れもなかった。
- コンテナ船「MSC・ナポリ(en:MSC Napoli、イギリス船籍、MSC社(スイス)所有)」がイギリス・デヴォン州沖合いにて、暴風雨の直撃を受け座礁。乗員26名は全員無事だったものの、船体ほぼ全部を損壊し航行不能となる。さらに重油の流出および、約50個のコンテナが沿岸に漂着した。
- 撒積貨物船「アルファ・アクション(ギリシャ船籍、77,211トン、IMO 9074494)」が伊豆諸島の利島沖合いにて、夜間の警戒不備により、コンテナ船「ワンハイ307(シンガポール船籍、25,836トン、ワンハイ海運(台湾)所有、IMO 9237096)」に衝突。「ワンハイ307」は乗員全員無事だったものの、船尾を損壊し航行不能となり、重油が流出した。「アルファ・アクション」は乗員全員無事だったものの、船首を損壊し航行不能となった(重油流出なし)。
2008年(平成20年)
[編集]- 海上自衛隊のイージス艦「あたご」がハワイでのミサイル発射実験から帰投途中、千葉県野島崎沖の太平洋上で三宅島北方に向け移動中のマグロ延縄漁船団と交錯したさいに船団の一隻「清徳丸」と衝突。「あたご」の舳先で「清徳丸」は両断し沈没。乗員の父子2人が行方不明となった。
- 神戸市垂水区沖の明石海峡付近で、「第五栄政丸(MMSI 8801577)」が「オーシャンフェニックス(IMO 9020704)」に衝突。その後「オーシャンフェニックス」が「ゴールドリーダー(ベリーズ船籍、MMSI 8014497)」に衝突し、「ゴールドリーダー」が沈没。乗組員9人のうち3人が行方不明となった。
- フィリピンシブヤン海で、台風6号の影響によりフェリー「プリンセス・オブ・ザ・スターズ(旧「フェリーらいらっく」新日本海フェリー)」が沈没。乗客700人以上が死亡または行方不明となった[91][92][93]。
- 韓国の泰安郡近海に停泊していたタンカー「ヘーベイ・スピリット」にサムスン重工業所属のクレーン船が衝突。12,547キロリットルの重油が流失し、韓国史上最大規模の海洋汚染となった。原因は、航行中であるクレーン船を曳航中のタグボートが、停泊中の船舶「ヘーベイスピリット」を迂回する義務があるにもかかわらずそれを無視し、近道をしようと「ヘーベイスピリット」に接近。その後、波浪と曳航ワイヤの破断等によってコントロールを失ったことである。しかし、韓国では「(停泊していた)タンカーに責任がある」とし、インド人の船長と一等航海士に有罪判決を下した。このことから、インドではサムスン製品の不買運動が発生したほか、各国の船員組合が韓国行きをボイコットしようとするなど波紋が広がった。
2009年(平成21年)
[編集]- 海上自衛隊の護衛艦「くらま」が観艦式から帰投途中の関門海峡において、他船を追い越そうとした韓国籍のコンテナ船「カリナ・スター」に衝突されて炎上し、乗組員6人が軽傷。この事故に関して、関門海峡事務所が事故直前に「カリナ・スター」に出した指示(前方を航行中の船を追い越すことを示唆)と「カリナ・スター」の操船(海峡通過中にもかかわらず、前方を航行中の船を追い越そうとした)に疑問の声が上がった。
- 東京発志布志経由那覇行のフェリー「ありあけ(マルエーフェリー、乗員21名乗客7名)」が三重県熊野市の沖合を航行中、大波により積荷が片寄ったことにより船体が傾斜し、救難信号を発したのち熊野港に避難を試みるも座礁した。乗員乗客は全員救助されるが船体は横倒しになったほか、重油が流出した[94]。
2010年代
[編集]2010年(平成22年)
[編集]- 6月18日 - 浜名湖・ボート転覆事故
- 9月7日 - 尖閣諸島中国漁船衝突事件
- 12月18日 - 黄海中国漁船転覆事件
- 中国の漁船が韓国の取締船から逃走するために、意図的に衝突した直後に転覆。1人が死亡、1人が行方不明。中国政府は韓国に対して賠償を要求した。
2011年(平成23年)
[編集]- 7月10日
- ロシア・ヴォルガ川(タタールスタン共和国)で客船「Bulgaria(1,003トン)」が嵐に遭い沈没。少なくとも122人が死亡。
- 8月17日 - 天竜川川下り船転覆死亡事故
- 静岡県内の天竜川において、川下り船「第十一天竜丸」が転覆。乗客ら5人が死亡した。
- 9月10日 - スパイス・アイランダーIの沈没
- タンザニアのペンバ島とザンジバル島の間の海域でフェリー「Spice Islander I」が沈没。死者240人以上。
2012年(平成24年)
[編集]- 1月13日 - コスタ・コンコルディアの座礁事故
- イタリアのジリオ島付近にある浅瀬で、クルーズ客船「コスタ・コンコルディア」が座礁し、その後浸水・横転。32名が死亡または行方不明。
- 2月2日
- ソロモン海でフェリー「en:MV Rabaul Queen(定員322人)」が転覆し沈没。ラジオニュージーランドの報道によると、321名が死亡または行方不明、237名が救助。
- 3月13日
- バングラデシュの Meghna 川でフェリー「Shariatpur 1」が貨物船と衝突し転覆。死者147人以上。
- 4月30日 - 2012年アッサム・フェリー沈没事故
- インドのアッサム州ブラマプトラ川でフェリーが転覆。死者100人以上。
- 7月18日
- タンザニアのザンジバル島沖でフェリー「en:MV Skagit」が沈没。死者100人以上。
- 10月1日 - 香港ラマ島船衝突事故
- 国慶節の日、香港の南西南丫島付近でフェリー「南丫四号(定員200人、香港電燈)」と双胴船「海泰号(定員389人、港九小輪)」が衝突し「南丫四号」が沈没。39人が死亡。双方の船長と船員のあわせて7名が逮捕された。
2013年(平成25年)
[編集]- 5月7日
- イタリアのジェノヴァ港、海上交通管制センターの管制塔にコンテナ船「it:Jolly Nero(40,594トン、載貨(最大)30,866トン)」が衝突し、建物が倒壊。死者9名、負傷者4名。
- 6月17日
- コンテナ船「MOL COMFORT(86,692トン、バハマ船籍、商船三井)」の船体中央部に亀裂が発生し自力航行不能となり漂流、前後2つに破断し、前方が6月27日、後方が7月10日にそれぞれ沈没。
- 8月16日
- フィリピン中部セブ島のタリサイ沖のマクタン海峡で、フェリー「en:MV St. Thomas Aquinas(11,405トン、2GO社、旧「フェリーすみよし」(7,270トン、名門カーフェリー))」とコンテナ船「Sulpicio Express Siete(9,754トン、載貨(最大)11,464トン)」が衝突し「St.Thomas Aquinas」が沈没。120人が死亡または行方不明、750人が救助。
- 9月27日
- 伊豆大島の西11kmの海上で、貨物船「JIA HUI(嘉惠、ジィアフイ、2,962トン、載貨(最大)5,195トン、シエラレオネ船籍、駿豪海運(香港)、IMO 8660911)」が海事法(海上衝突予防法14条)とは逆に舵を転じ、貨物船「第18栄福丸(498トン、丸仲海運(名古屋)、信号符字 JD3173)」に衝突。「第18栄福丸」が転覆、乗組員6名が全員死亡。「嘉惠」の当直責任者(寧海中和海運(浙江省寧波市))が逮捕・起訴[96]。
- 9月27日
- インドネシアの西ジャワ南部海岸沖で難民船が転覆。約50人が死亡または行方不明[97]。
- 9月29日
- 10月3日 - 2013年ランペドゥーザ島難民船沈没事故
- 地中海ランペドゥーザ島沖でリビアからの難民船が火災を起こして沈没。エリトリア、ソマリア、ガーナ出身者など360人以上が死亡。
- 10月13日
- 12月10日
- 和歌山県串本町動鳴気漁港沖で、荒天により台船とタグボート(両船とも韓国船籍)が座礁。重油が流出した。
- 12月29日
- 対馬海峡西水道で、パラキシレン(p-Xylene)、アクリロニトリル、スチレンモノマーを積んで蔚山港から出港したケミカルタンカー「Maritime Maisie(29,211トン、載貨(最大)44,404トン、香港船籍、Aurora Tankers(シンガポール)、IMO 9251535)」が左舷中央付近に、試運転中の自動車運搬船「HYUNDAI MIPO 8091(Gravity Highway(予定)、55,700トン、載貨(最大)19,974トン、バハマ船籍、現代尾浦造船(蔚山)、IMO 9672404)」が衝突しMaritime Maisieが炎上、漂流し日本の領海に侵入した。
2014年(平成26年)
[編集]- 1月11日
- 韓国の麗水市沖でタンカー「DL Sunflower(28,519トン、載貨(最大)47,204トン、DL Shipping(釜山)、IMO 9168740)」が撒積貨物船「Ligari(38,851トン、載貨(最大)75,583トン、マルタ船籍、IMO 9279513)」と衝突。石油が流出した。
- 1月15日 - おおすみ衝突事故
- 釣り船「とびうお」と海上自衛隊の輸送艦「おおすみ」が衝突。釣り船が転覆し2名が死亡した。
- 1月31日
- 韓国の麗水港でタンカー「Wu Yi San(ウイサン、164,169トン、載貨(最大)318,445トン、シンガポール船籍、江南造船(上海)建造、Nova Tankers(デンマーク)、IMO 9629366)」が桟橋に衝突。GSカルテックス所有の送油管3本を破損し、石油が流出した。
- 2月15日
- 撒積貨物船「Captain Vangelis L(88,420トン、載貨(最大)169,044トン、リベリア船籍、Kyla Shipping(ギリシャ)、IMO 9450868)」が釜山沖約6kmで給油中に石油供給船と衝突し、燃料タンクを破損。石油が流出した。
- 3月18日
- 剱崎沖の浦賀水道で、多目的貨物船「Beagle III(12,630トン、載貨(最大)17,220トン、IMO 9478353)」とコンテナ船「ペガサスプライム(Pegasus Prime、7,406トン、載貨(最大)9,618トン、韓国船籍、IMO 9283162)」が衝突し「Beagle III」が沈没。9名が死亡・行方不明。重油が流出[98]した。
- 4月16日 - セウォル号沈没事故
- 9月24日
- ブラジルのマットグロッソ・ド・スル州パラグアイ川で水上ホテル「パンタナールの夢」(Sueño Del Pantanal、パラグアイ籍船、乗員乗客27名)が暴風雨の影響により沈没。死者1名、行方不明者13名[99]。
- 9月30日
- 島根県の隠岐諸島沖約390キロ地点で遠洋漁業船「魯栄漁2859号(Lurongyu 2859、238トン、乗員14名、中国船籍)」が強風に煽られ沈没。付近にいた漁船30隻と第八管区海上保安本部の巡視船1隻が捜索にあたったが9名が行方不明になった[100]。
- 10月10日
- 澎湖諸島南東沖、海洋調査船「海研5号(2,700トン、乗員乗客45名、台湾船籍)」が悪天候により暗礁に乗り上げ沈没。当時船に常備していた救命胴衣にはLEDが付いており、これにより夜の海面に浮かぶ要救助者の位置を示し迅速な救助活動に繋がった[101]。死者2名、負傷者18名。
- 12月1日
- ロシア、ベーリング海でスケトウダラ用トロール漁船の「第501オリョン号(501오룡호、1,753トン、(国際)2,151トン、思潮産業所有、韓国船籍)」が沈没。韓国人11名、インドネシア人35名、フィリピン人13名、ロシア人1名の乗員60名が乗船、死者27名、行方不明者26名。
- 12月24日
- 島根県沖で巻き網漁船「第一源福丸(135トン、インドネシア人3名含む乗員20名、東洋漁業所有)」が網を引き揚げた際、引き揚げた魚の量が想定より多く船が傾いてしまい転覆、沈没。死者3名、行方不明者2名。
- 12月26日
- 青森県沖で貨物船「ミンクワン(Ming Guang、1,915トン、カンボジア船籍、乗員10名)」が沈没。死者3名。
2015年(平成27年)
[編集]- 1月15日
- 7月31日
- 苫小牧港沖を航行中の商船三井フェリー運行の「さんふらわあ だいせつ」の車両甲板より火災。乗客は全員救助されたが二等航海士1名が死亡。
2016年(平成28年)
[編集]2017年(平成29年)
[編集]- 4月24日 - 箱崎ふ頭貨物船火災沈没事故
2018年(平成30年)
[編集]- 1月6日 - 石油タンカー・サーンチーの衝突事故
- 上海の東約300km、中国EEZ内の東シナ海で、石油タンカー「サンチ」(Sanchi、85,000トン、載貨(最大)164,000トン、パナマ船籍・イラン国営タンカー社貸出、乗員32人)と、貨物船「CFクリスタル」(CF Crystal、42,600トン、載貨(最大)75,700トン、香港船籍、乗員21人 )が衝突。サンチ号は衝突直後に爆発し炎上。その後も漂流しながら爆発と炎上を繰り返し、8日後の1月14日、奄美大島の西約315kmの日本EEZ内で沈没[102]。サンチ号の乗員32人全員が死亡した。同船にはコンデンセート111,300トンと、船用燃料8,450バレルが積載されており、焼失しなかったものが東シナ海へ流出したと推定される[103]。このうちコンデンセートは大部分が焼失したか大気中に気化したと推定されている[104]。CFクリスタル号の乗員21人は全員無事。
- 9月4日
- 平成30年台風第21号の影響により、航空燃料タンカー『宝運丸』が関西国際空港連絡橋に衝突。
2019年(平成31年・令和元年)
[編集]- 9月2日 - コンセプション号火災沈没事故
- アメリカのサンタクルス島沖合で停泊していたスキューバダイビングボート船「コンセプション」から火災が発生し沈没。34人の死亡が確認されている。
2020年代
[編集]2020年(令和2年)
[編集]- 7月25日 - わかしお座礁石油流出事故
- 9月2日未明
- 鹿児島県奄美大島沖でパナマ船籍の貨物船「ガルフ・ライブストック1」が令和2年台風第9号の接近に伴う波浪の中、救難信号を出した後に転覆、沈没。乗員1人が海上保安庁に救助されたが乗員43人が死亡・行方不明。積荷はニュージーランドから中国へ向けて出荷された牛約5800頭[106][107]。
- 11月19日 - 与島沖旅客船沈没事故
- 香川県坂出市の与島沖で修学旅行の小学生ら62人を乗せた小型旅客船(チャーター船)が沈没。全員が救助され、そのうち小学生の男女2人とバスガイドの女性が病院に搬送されたが軽症。45歳の船長が業務上過失往来危険の容疑で逮捕された。
- 12月22日
- 愛媛県愛南町を出港し、三重県尾鷲港に向かっていた活魚運搬船「第8しんこう丸」(199トン)が乗組員6人とともに行方不明となった。2024年(令和6年)3月8日、第5管区海上保安本部は和歌山県すさみ町の南西約30キロ沖合、水深約1500メートルの海底で船体を発見したと発表した[108]。
2021年(令和3年)
[編集]- 3月23日 - 2021年スエズ運河封鎖事故
- スエズ運河において、日本の正栄汽船が保有し台湾の長栄海運が運用するコンテナ船「EVER GIVEN エヴァーギヴン」が座礁。人的被害はなかったものの、スエズ運河が6日にわたって封鎖され物流に混乱をきたした。
- 11月28日 - 博多港貨物船防波堤衝突事故
2022年(令和4年)
[編集]- 4月23日 - 知床遊覧船沈没事故
- 北海道斜里郡斜里町知床半島西海岸沖のオホーツク海で、乗客乗員26人が乗っていた遊覧船「KAZU I(カズ ワン)」が沈没。死者20人、行方不明者6人。2024年、観光船所有会社の社長が業務上過失致死傷の容疑で逮捕された。
2023年(令和5年)
[編集]- 6月18日 -潜水艇タイタン沈没事故
- 1912年に北大西洋で沈没し、水深3800mの海底に眠るタイタニック号を目指して北大西洋ニューファンドランド島沖に潜水した潜水艇「タイタン」が突然圧壊し乗員5人が死亡した。
2024年(令和6年)
[編集]- 3月26日 - フランシス・スコット・キー橋崩落事故
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ 『不沈艦伝説』光人社、2007年12月10日、19-32頁。
- ^ 姉妹都市オーストラリア連邦タスマニア州クラレンス市遠藤雅子氏『謎の異国船』
- ^ 「八重山ジャンルごと小事典」p107 崎原 恒新 ボーダーインク、1999年8月1日
- ^ 竹富島町史第二巻、バウン号の苦力反乱と琉球王国―揺らぐ東アジアの国際秩序 (沖縄学術研究双書 )
- ^ “大背美流れ(おおせみながれ)”. 太地町. 2013年2月2日閲覧。
- ^ a b c d 海難ものしり帖
- ^ 『官報』第2417号、明治24年7月21日、p.213
- ^ a b 海難ものしり帖 - 形船船長運転手機関手免状規則時代
- ^ 下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』289頁 河出書房新社刊 2003年11月30日刊 全国書誌番号:20522067
- ^ 下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』301頁 河出書房新社刊 2003年11月30日刊 全国書誌番号:20522067
- ^ 石崎汽船株式会社 『海に生きる 石崎汽船史』 1995年、127-128頁
- ^ 芳野勝正 『和気の昔語り』 1984年、116-117頁
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 日外アソシエーツ編集部 編『日本災害史事典 1868-2009』日外アソシエーツ、2010年9月27日、33-55頁。ISBN 9784816922749。
- ^ 『呉市史 第5巻』pp.245 昭和63年3月31日 呉市史編纂委員会編
- ^ 別府航路の客船、須磨沖合で遭難『大阪毎日新聞』昭和8年10月21日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p47 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ “日本の重大海難 海員懲戒法時代(明治30年~昭和22年)”. 国土交通省海難審判所. 2023年2月16日閲覧。
- ^ 「機関室に大穴、わずか三分で沈没」『東京日日新聞』1935年(昭和10年)7月3日号外(昭和ニュース事典編纂委員会編『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p.91 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 「演習中に台風、四隻で死傷・不明60人」『東京日日新聞』1935年(昭和10年)9月28日夕刊(昭和ニュース事典編纂委員会編『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p.89 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 「大阪商船の貨物船、熊野灘で消息絶つ」『大阪毎日新聞』1936年2月6日(昭和ニュース事典編纂委員会編『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p.89 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 「石炭運搬船愛国丸、吹雪の積丹沖で沈没」『東京朝日新聞』1937年1月13日(昭和ニュース事典編纂委員会編『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p.685 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 「吹雪の津軽海峡で小樽丸が遭難」『小樽新聞』1937年(昭和12年)2月15日(昭和ニュース事典編纂委員会編『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p.686 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 「高島岬沖で貨物船昭広丸沈没」『大阪毎日新聞』1938年(昭和13年)1月27日夕刊(昭和ニュース事典編纂委員会編『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p.686 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ a b c d e f g h i 日外アソシエーツ編集部 編『日本災害史事典 1868-2009』日外アソシエーツ、2010年9月27日、56-62頁。ISBN 9784816922749。
- ^ 「伊良部島通いの連絡船が転覆」『福岡日日新聞』1940年7月2日(昭和ニュース事典編纂委員会編『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p.59 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 「内海汽船の客船・錦丸が沈没」『毎日新聞』1943年1月1日大阪版(昭和ニュース事典編纂委員会編『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p.44 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ “火災と海難”. 「えひめの記憶」- 愛媛県史 社会経済6 社会 二. 愛媛県生涯学習センター. 2014年3月20日閲覧。
- ^ “第六垂水丸慰霊碑”. 垂水観光協会 (2012年9月1日). 2022年1月16日閲覧。
- ^ a b c 日外アソシエーツ編集部 編『日本災害史事典 1868-2009』日外アソシエーツ、2010年9月27日、72-75頁。ISBN 9784816922749。
- ^ 「関釜連絡船、潜水艦の雷撃を受けて沈没」『毎日新聞』1943年10月8日大阪版(昭和ニュース事典編纂委員会編『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p42 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 日外アソシエーツ編集部 編『日本災害史事典 1868-2009』日外アソシエーツ、2010年9月27日、78-98頁。ISBN 9784816922749。
- ^ 「25名水死? シケで富丸沈没」『日本経済新聞』昭和25年12月12日朝刊3面
- ^ “新生丸遭難事故から68年 住民らが慰霊祭”. 南海日日新聞 (2021年2月5日). 2023年2月11日閲覧。
- ^ 「辰和丸の遭遇した台風第三号について」『海洋時報』第5巻第4号、神戸海洋気象台、1954年6月、11-17頁、NAID 40017538565。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 日外アソシエーツ編集部 編『日本災害史事典 1868-2009』日外アソシエーツ、2010年9月27日、103-125頁。ISBN 9784816922749。
- ^ “歴史詳細 > 昭和31年(1956)”. 岩内町教育委員会. 2016年7月15日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 日外アソシエーツ編集部 編『日本災害史事典 1868-2009』日外アソシエーツ、2010年9月27日、126,127.131-140頁。ISBN 9784816922749。
- ^ a b c d e f g h 日外アソシエーツ編集部 編『日本災害史事典 1868-2009』日外アソシエーツ、2010年9月27日、142-149頁。ISBN 9784816922749。
- ^ a b c d e f 日外アソシエーツ編集部 編『日本災害史事典 1868-2009』日外アソシエーツ、2010年9月27日、153-157頁。ISBN 9784816922749。
- ^ a b c d 日外アソシエーツ編集部 編『日本災害史事典 1868-2009』日外アソシエーツ、2010年9月27日、158-165頁。ISBN 9784816922749。
- ^ “機船第一宗像丸機船タラルド・ブロビーグ衝突事件”. 海難審判所. 2014年3月20日閲覧。
- ^ 朝日新聞・昭和38年1月18日朝刊記事
- ^ 朝日新聞・昭和38年1月19日朝刊記事
- ^ 朝日新聞・昭和38年4月25日朝刊記事
- ^ 衆議院会議録情報 第043回国会 運輸委員会 第32号
- ^ “新報アーカイブ・あの日の紙面 <13>「みどり丸」沈没 1963年8月18日朝刊”. 琉球新報. (2009年8月21日)
- ^ 朝日新聞・昭和39年3月27日記事
- ^ 朝日新聞・昭和39年3月31日及び4月4日記事
- ^ 朝日新聞・昭和39年3月31日及び4月5日朝刊記事
- ^ 朝日新聞・昭和39年5月12日及び14日記事
- ^ 朝日新聞・昭和39年5月16日朝刊及び夕刊記事
- ^ 朝日新聞・昭和39年6月5日夕刊記事
- ^ 朝日新聞・昭和39年8月31日記事
- ^ 「愛媛の貨物船が転覆・沈没」『中國新聞』昭和45年1月19日 1面
- ^ 「大阪港で遊覧船が沈没 学童・母ら19人死ぬ 1人行方不明」『日本経済新聞』昭和40年8月2日1面
- ^ 「大島沖でタンカー沈没 貨物船と衝突、21人不明」『日本経済新聞』昭和40年8月2日.7面
- ^ 朝日新聞・昭和42年1月9日夕刊記事
- ^ 朝日新聞・昭和42年1月10日夕刊記事
- ^ 朝日新聞・昭和42年1月16日朝刊記事
- ^ 朝日新聞・昭和42年1月16日夕刊記事
- ^ 朝日新聞・昭和42年1月26日朝刊記事
- ^ 朝日新聞・昭和42年2月13日朝刊記事
- ^ 圧搾空気送り込む 脱出した機関長『朝日新聞』1968年(昭和43年)3月2日朝刊 12版 15面
- ^ 世界最大の沈没 オランダのタンカー『朝日新聞』1969年(昭和44年)12月15日朝刊 12版 15面
- ^ 貨物船の七人が不明 第10開洋丸 襟裳岬沖で転覆『朝日新聞』1969年(昭和44年)12月15日夕刊 3版 10面
- ^ 「一人死に三人不明 下関の貨物船沈没」
- ^ 大型タンカー真二つ 船長ら7人が不明 後ろ半分だけ漂流『朝日新聞』1970年(昭和45年)1月7日夕刊 3版 9面
- ^ 安全無視した新港建設 防波堤より企業 海員組合が警告 台風に無防備『朝日新聞』1970年(昭和45年)2月4日朝刊 12版 14面
- ^ 沈没漁船の10人絶望 いわき市沖、ギリシャ貨物船と衝突 18大洋丸が進路誤る?『朝日新聞』1970年(昭和45年)2月12日夕刊 3版 11面
- ^ 「濃霧の熊野灘 貨物船の事故続出」『中國新聞』昭和46年7月5日14面
- ^ 「フェリーも衝突 兵庫県沖 乗客12人重軽傷」『中國新聞』昭和46年7月5日14面
- ^ 「貨物船、衝突し沈没 船長ら4人行方不明」『中國新聞』昭和46年11月16日.15面
- ^ 「座礁は船長の過失 仙台審判庁が採決」『朝日新聞』昭和47年(1972年)9月5日夕刊、3版、9面
- ^ 海難防止・海洋汚染防止の周知宣伝『海と安全』488号、日本海難防止協会、1999年9月
- ^ 「連絡船が沈没 死者不明62人」『朝日新聞』昭和48年1月26日朝刊、13面、3面
- ^ 「貨物船、衝突 勧告船員24人不明」『朝日新聞』昭和49年(1974年)7月29日朝刊、13版、19面
- ^ 10日ぶり離礁 原油抜き取りは続ける『中国新聞』昭和50年1月16日朝刊15面
- ^ 回送タンカー真っ二つ 大シケの豊後水道 漂流の六十二人救助『朝日新聞』1976年(昭和51年)9月12日朝刊、13版、23面
- ^ “昭和52年横審第32号 汽船菱洋丸遭難事件”. 公益財団法人 海難審判・船舶事故調査協会 (1977nenn). 2021年2月16日閲覧。
- ^ パナマ船籍沈没か 屋久島沖『朝日新聞』1976年(昭和51年)12月27日朝刊、13版、15面
- ^ 外国船衝突、20人不明 1人は死亡、2人助かる 韓国船は沈没 大シケの熊野灘『朝日新聞』1977年(昭和52年)3月30日夕刊、3版、11面
- ^ 流出総量は千六百キロリットル ア号原油 三百五十キロリットル海汚す『朝日新聞』1977年(昭和48年)4月8日朝刊、13版、23面
- ^ “貨物船尾道丸遭難事件”. 海難審判所. 2011年2月13日閲覧。
- ^ 衝撃の瞬間「スカンジナビア・フェリー火災」
- ^ 佐野 三治『たった一人の生還―「たか号」漂流二十七日間の闘い』新潮文庫(新潮社)、1995年。ISBN 978-4-10-136711-8。
- ^ 「神様なんかこの世にいねぇよ……」ヨットが転覆し、わずかな水とビスケットで太平洋を漂流した27日間メシ通、リクルート、2018-09-28
- ^ マリンマリン遭難に関する緊急報告『Offshore』199号、日本外洋帆走協会、平成4年1月l5日
- ^ グアムレース ・事故調査対策委員会より『Offshore』200号、日本外洋帆走協会、平成4年2月l5日
- ^ 車両デッキへの海水流入でフェリーが沈没、852名死亡 - 失敗知識データベース
- ^ 平成18年横審第90号漁船第三新生丸貨物船ジムアジア衝突事件
- ^ 『軍事研究』2007年3月号
- ^ フィリピン沖で沈没の大型フェリー、生存者28人を発見 - AFPBB News(2008年6月23日付、2010年8月16日閲覧)
- ^ 台風通過中のフィリピンでフェリー沈没、700人超が行方不明 - ロイター(2008年6月22日)
- ^ 人数については報道機関によりまちまちとなっている。
- ^ 三重県沖、フェリーから救助要請 乗客7人は全員救助 - 47NEWS(共同通信社、2009年11月13日付・2010年10月29日閲覧)
- ^ “海難審判(裁決言渡)について” (PDF). 国土交通省横浜地方海難審判所 (2012年3月26日). 2014年5月14日閲覧。
- ^ “貨物船JIA HUI貨物船第十八栄福丸衝突事故調査の進捗状況について” (PDF). 国土交通省運輸安全委員会 (2013年10月23日). 2014年5月14日閲覧。
- ^ 難民船西ジャワ沖で転覆、50人不明 - NICHIGO ONLINE
- ^ “貨物船BEAGLE IIIコンテナ船PEGASUS PRIME衝突事故調査の進捗状況について” (PDF). 国土交通省運輸安全委員会 (2014年3月26日). 2014年5月14日閲覧。
- ^ “水上ホテルの船舶が沈没 1人死亡、13人行方不明”. São Paulo Shimbun (2014年9月26日). 2014年12月25日閲覧。
- ^ “中国漁船沈没で9人が行方不明、日本巡視船が救助協力 中国ネットには様々な声”. Excite Japan Co., Ltd. (2014年10月8日). 2014年12月25日閲覧。
- ^ “海洋調査船沈没 LED付き救命胴衣が迅速な救助につながる/台湾”. Focus Taiwan (2014年10月12日). 2014年12月25日閲覧。
- ^ “日本EEZ内で沈没か 上海沖で衝突のタンカー”. 日本経済新聞. (January 15, 2018) February 01, 2018閲覧。
- ^ Cally Carswell (January 25, 2018). “Unique Oil Spill in East China Sea Frustrates Scientists”. Scientific American February 01, 2018閲覧。
- ^ “石油タンカーの衝突事故に関する概況報告書” (PDF). グリーンピース・ジャパン (January 15, 2018). February 02, 2018閲覧。
- ^ “日本の貨物船から燃料流出 モーリシャスが「環境非常事態」を宣言”. BBC. 2020年8月20日閲覧。
- ^ “奄美沖で遭難の貨物船、沈没か 43人乗船、牛6千頭輸送中”. AFP (2020年9月3日). 2020年9月7日閲覧。
- ^ “牛につかまり一命取り留める 貨物船遭難、救助の男性”. 日本経済新聞 (2020年9月8日). 2020年9月7日閲覧。
- ^ “4年前に行方不明の船、1500m海底で発見 乗組員6人は依然不明”. 朝日新聞DIGITAL (2024年3月8日). 2024年3月8日閲覧。
外部リンク
[編集]- “海難ものしり帖”. 海難審判所. 2013年5月19日閲覧。
- “海難ものしり帖 - 西洋船長運転手機関手免状規則時代”. 海難審判所. 2016年5月7日閲覧。