有馬馨
有馬 馨 | |
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生誕 |
1893年12月15日 日本 宮崎県 |
死没 | 1956年1月23日(62歳没) |
所属組織 | 日本海軍 |
軍歴 | 1915年 - 1949年 |
最終階級 | 海軍中将 |
署名 |
有馬 馨(ありま かおる、1893年(明治26年)12月15日 - 1956年(昭和31年)1月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。旧姓、渡邊。
経歴
[編集]宮崎県出身。父-渡邊甲介・母-ミツの四男として生まれる。1914年(大正3年)12月、海軍兵学校(42期)を卒業し、1915年(大正4年)12月、海軍少尉に任官。海軍砲術学校高等科で学ぶ。「球磨」「浅間」の各分隊長、「第五号駆逐艦」砲術長、「金剛」分隊長などを歴任し、1927年(昭和2年)11月、海軍大学校(甲種25期)を卒業。
1926年(大正15年)12月、海軍少佐に昇進。1927年12月、海兵教官兼監事に就任し、「八雲」砲術長、第二遣外艦隊参謀、軍令部出仕などを歴任。1932年(昭和7年)1月、海軍中佐に進級し、軍令部参謀兼海大教官、兼参謀本部員に就任。1935年(昭和10年)11月、第一戦隊参謀に発令され、第三戦隊参謀を経て海大教官となり、1936年(昭和11年)12月、海軍大佐に昇進。
1937年(昭和12年)8月、第二艦隊参謀に就任し、海大教官、支那方面艦隊参謀、兼中支那方面軍参謀、教育局第2課長などを歴任。1939年(昭和14年)11月、「熊野」艦長に就任。以後、「比叡」艦長、佐世保鎮守府付を経て、1941年(昭和16年)9月、「二号艦」艤装員長となり、1942年(昭和17年)8月、「武蔵」初代艦長に就任した。
1942年11月、海軍少将に進級。1943年(昭和18年)6月、軍令部出仕となり、海兵教頭兼監事長、兼呉練習戦隊司令官を歴任。1944年(昭和19年)2月、第4根拠地隊司令官兼第二海上護衛隊司令官に着任し、トラック島付近の防衛と海上護衛を担った。以後、第四艦隊参謀長、兼第四艦隊補給長、南西方面艦隊司令部付、第31特別根拠地隊司令官を務める。1944年11月、南西方面艦隊参謀長となり、 第13航空艦隊参謀長(1945年2月まで)・第三南遣艦隊参謀長・第31特別根拠地隊司令官を兼務し、終戦を迎えた。
1945年(昭和20年)11月、海軍中将に昇進。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。1949年(昭和24年)1月に復員。
昭和15年から終戦までの5年間にまとめた文書が、2001年に五曜書房から『帝国海軍の伝統と教育 ― 付・比島作戦の思い出 ― 戦艦武蔵初代艦長 南西方面艦隊参謀長有馬馨の遺稿』(ISBN 4-7952-5399-4)として出版された。
脚注
[編集]- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」1頁。
参考文献
[編集]- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:第一法規出版、1995年。