岡林洋一
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 |
パラグアイ アルトパラナ県イグアス市 |
生年月日 | 1968年4月11日(56歳) |
身長 体重 |
186 cm 80 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1990年 ドラフト1位 |
初出場 | 1991年4月10日 |
最終出場 | 2000年10月11日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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岡林 洋一(おかばやし よういち、出生名「岡林 フェリッペ 洋一」[要出典]。1968年4月11日 - )は、パラグアイ・アルトパラナ県イグアス市出身の元プロ野球選手(投手)。右投左打。現在は東京ヤクルトスワローズのスカウトを務める[1]。
来歴
[編集]プロ入り前
[編集]パラグアイの日系人移住地であるイグアス居住区で生まれ育つ[2]。中学3年(14歳)時に両親の出身地である高知県香美郡へ移り住んだ[3]。
高知商業高等学校では、2年時の1985年にエース中山裕章の控え投手として第67回全国高等学校野球選手権大会に出場。3年時の1986年にもエース兼主将として第68回全国選手権に出場し、ベスト8[3]。近藤真一擁する享栄と対戦して勝利している。
1987年4月に専修大学に入学。3年時の1989年東都大学野球春季リーグ戦で6勝1敗を挙げ、史上最多となる31回目の優勝にエースとして貢献し、最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインに選ばれた[3]。リーグ通算62試合に登板し、28勝18敗、防御率1.85、248奪三振[3]。チームメイトに杉山賢人、武藤潤一郎、町田公二郎がいた。
1990年のドラフト会議においてヤクルトスワローズから1位指名を受け、入団[3]。
ヤクルト時代
[編集]1991年シーズンのオープン戦でルーキー大賞を受賞。シーズンでも抑え投手として活躍し、12勝6敗12セーブを挙げる[4]。
1992年シーズンは、開幕から先発として活躍。9月からは抑えに回り、9月11日の対阪神タイガース戦では、7回から登板し、途中40分近い中断もありながら15回まで9イニングを“完封”した(当時は延長15回制で、引き分けの場合は後日再試合、というルール)[5]。さらに、9月29日の広島戦では9回二死同点に追いつかれそこから延長14回途中(前田智徳に本塁打を打たれサヨナラ負け)まで投げ切った(9月から抑えでの成績は10試合2勝3敗防御率2.03を記録、完了10回ながらセーブは1つも記録できず投球回は26回2/3だった)。10月6日に首位阪神との直接対決で8月30日以来約1か月ぶりの先発登板、広沢克己の本塁打による1点を守り抜いて仲田幸司に投げ勝つなど、14年ぶりのリーグ制覇に貢献。西武ライオンズとの1992年の日本シリーズでは、第1・4・7戦に先発登板し[6]、いずれも完投し、敢闘選手賞受賞[7]。延長戦が2試合あったため、30イニング、430球を投げ抜いた[8]。日本シリーズで3完投以上を記録したのは、1964年のジョー・スタンカ以来28年ぶり4人目、投球回数30回は1959年の杉浦忠以来33年ぶりであった。シリーズ3試合を通して防御率1.50、1勝2敗の成績を残した。
1993年シーズンも開幕から先発として登板するも、6月10日の対巨人10回戦で完封勝利の5勝目(4敗)を挙げたのを最後に次第に負けが先行した。7月から約2か月故障離脱。チームはリーグ優勝、日本シリーズも制したが登板がなかった。
1994年シーズンは初先発が4月30日の対横浜戦と出遅れたものの、規定投球回数に達し、チーム最多の11勝を挙げた。
1995年シーズンには自身初の開幕投手を務めたが、8月に右肩と右膝を痛め、戦線離脱[3]。オリックス・ブルーウェーブとの日本シリーズも登板がなく、同年のシーズンオフの11月に故障箇所を手術。
1996年シーズンはプロ入り初の一軍登板なしに終わった[3]。
1997年シーズンは一軍開幕ローテーションに入り、4月9日のシーズン初登板で2年ぶりの勝利を挙げる。しかしシーズン通して勝ち星はこの1勝にとどまり、チームはリーグ優勝・西武との日本シリーズでもチームが日本一を果たしたがこのシリーズでも登板はなかった。
1998年シーズンは一軍登板なし。
1999年シーズンの9月5日、中継ぎで879日ぶりの白星を挙げる。
2000年シーズンは6試合の登板にとどまり、同年のシーズン限りで現役を引退[3]。
引退後
[編集]2001年シーズンには、ヤクルトの二軍投手コーチに就任[3]。
2005年シーズンからはスカウトへ転身。中四国地区を担当。
2012年の復刻ユニフォーム企画「GREAT CENTRAL」〜レジェンドユニフォームシリーズ2012〜に伴う試合前イベント『いま甦る! リーグ史を彩った、あの名勝負』に出場(9月2日、神宮)、久々にユニフォーム姿をファンの前に披露した。当該イベントでは、中日OBの宇野勝と対戦し、安打を喫している。
2017年には『世界!ニッポン行きたい人応援団』の企画で35年ぶりに生まれ故郷・イグアスに帰り、当時の友人らと再会をした[9]。
2021年には前年(2020年)に亡くなった野村克也元監督をしのぶ会にも出席した[10]。現在は球団編成グループ課長・プロスカウト担当を務める[11]。
プレースタイル・人物
[編集]持ち球はストレート、フォーク、スライダー、カーブ。長身を活かした、ワインドアップで右足のかかとを浮かすダイナミックな投球フォームが特徴だった[5]。
パラグアイ生まれであり、スペイン語が堪能[12]。キャッチャーミットが青色でなければ投げられないほどの青色好き[13]。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1991 | ヤクルト | 45 | 3 | 1 | 0 | 0 | 12 | 6 | 12 | -- | .667 | 449 | 106.2 | 110 | 8 | 19 | 6 | 6 | 93 | 2 | 0 | 50 | 47 | 3.97 | 1.21 |
1992 | 34 | 23 | 12 | 3 | 4 | 15 | 10 | 0 | -- | .600 | 811 | 197.0 | 190 | 20 | 41 | 7 | 4 | 131 | 4 | 0 | 70 | 65 | 2.97 | 1.17 | |
1993 | 17 | 17 | 5 | 2 | 1 | 5 | 8 | 0 | -- | .385 | 486 | 115.2 | 120 | 13 | 28 | 3 | 2 | 62 | 1 | 0 | 52 | 47 | 3.66 | 1.28 | |
1994 | 22 | 22 | 10 | 2 | 3 | 11 | 5 | 0 | -- | .688 | 688 | 171.2 | 161 | 13 | 31 | 3 | 3 | 95 | 0 | 0 | 60 | 57 | 2.99 | 1.12 | |
1995 | 20 | 16 | 3 | 1 | 1 | 7 | 7 | 0 | -- | .500 | 441 | 107.0 | 116 | 12 | 20 | 0 | 1 | 54 | 1 | 0 | 48 | 45 | 3.79 | 1.27 | |
1997 | 12 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | -- | .500 | 143 | 31.1 | 41 | 6 | 6 | 2 | 2 | 14 | 0 | 1 | 19 | 17 | 4.88 | 1.50 | |
1999 | 19 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | -- | .333 | 139 | 29.1 | 34 | 2 | 19 | 0 | 1 | 20 | 2 | 0 | 17 | 17 | 5.22 | 1.81 | |
2000 | 6 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 33 | 7.1 | 9 | 0 | 2 | 1 | 0 | 3 | 1 | 0 | 4 | 4 | 4.91 | 1.50 | |
通算:8年 | 175 | 86 | 31 | 8 | 9 | 53 | 39 | 12 | -- | .576 | 3190 | 766.0 | 781 | 74 | 166 | 22 | 19 | 472 | 11 | 1 | 320 | 299 | 3.51 | 1.24 |
- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
[編集]記録
[編集]- 初登板:1991年4月10日、対横浜大洋ホエールズ2回戦(明治神宮野球場)、8回表に3番手として救援登板、1回無失点
- 初奪三振:1991年4月16日、対中日ドラゴンズ1回戦(明治神宮野球場)、7回表に川又米利から
- 初勝利:1991年5月3日、対中日ドラゴンズ6回戦(ナゴヤ球場)、8回裏に2番手として救援登板・完了、2回無失点
- 初セーブ:1991年5月7日、対阪神タイガース3回戦(明治神宮野球場)、9回表に2番手として救援登板・完了、1回無失点
- 初先発:1991年9月28日、対広島東洋カープ21回戦(明治神宮野球場)、7回5失点で敗戦投手
- 初先発勝利・初完投勝利:1991年10月7日、対広島東洋カープ26回戦(広島市民球場)、9回2失点
- 初完封:1992年5月13日、対読売ジャイアンツ7回戦(平和台球場)
- オールスターゲーム出場:3回(1992年 - 1994年)
背番号
[編集]- 15(1991年 - 2000年)
- 79(2001年 - 2004年)
脚注
[編集]- ^ 週刊ベースボール2014年3月24日号 P21
- ^ “元ヤクルト岡林洋一氏、魂のピッチングの原点はパラグアイでの友情”. スポーツ報知 (2016年12月28日). 2021年9月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、118ページ
- ^ “【背番号物語】ヤクルト「#15」岡林洋一が印象に残るナンバー、本塁打王の“ワニ男”も!? | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE. 2022年5月18日閲覧。
- ^ a b “日本シリーズで計430球の熱投 現役生活10年も強烈に輝いた「燕のエース右腕」は | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE. 2022年5月18日閲覧。
- ^ “ヤクルトに移籍した辻発彦が戸惑い。「こんなチームに負けたのか?」 (2019年9月20日)”. エキサイトニュース. 2022年1月10日閲覧。
- ^ “岡林洋一はデストラーデに2被弾。「どうやって抑えればいいんだ!」”. web Sportiva (2019年4月2日). 2021年8月3日閲覧。
- ^ “ペナントレースから日本シリーズまで……ヤクルト・岡林洋一の力投/プロ野球20世紀・不屈の物語【1992年】 | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE. 2022年5月18日閲覧。
- ^ “南米パラグアイ“日系移民”その後を追跡!”. テレビ東京 (2017年9月28日). 2021年9月29日閲覧。
- ^ “ノムさんの言葉「バイブル」 しのぶ会に2800人 神宮球場:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル. 2022年1月10日閲覧。
- ^ INC, SANKEI DIGITAL (2021年11月30日). “ヤクルトD1位・山下輝 高橋先輩のような「伸びのある直球を投げたい」”. イザ!. 2022年5月18日閲覧。
- ^ “試合中に大阪から東京に帰った助っ人も… 燕V戦士が爆笑対談で選ぶ最強内野陣”. Full-Count (2020年9月9日). 2021年8月19日閲覧。
- ^ “古田敦也が「投手でキャッチャーミットの色を変えていた」ナルホドな理由”. アサ芸プラス (2021年7月22日). 2021年9月29日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 岡林洋一 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)