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岩淵功

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岩淵 功
名前
カタカナ イワブチ イサオ[1]
ラテン文字 IWABUCHI Isao
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1933年11月17日[1]
日本の旗 日本栃木県
没年月日 (2003-04-16) 2003年4月16日(69歳没)[2]
日本の旗 日本東京都[2]
身長 172cm
体重 68kg
選手情報
ポジション FW
ユース
日本の旗 宇都宮高校
日本の旗 慶應義塾大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1955-???? 日本の旗 東京クラブ
代表歴
1955-1958 日本の旗 日本 8 (2)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

岩淵 功(いわぶち いさお、1933年11月17日 - 2003年4月16日)は、栃木県出身のサッカー選手。ポジションはFW。娘婿は元プロ野球選手吉村禎章

経歴

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栃木県立宇都宮高等学校3年次の1950年には小沢通宏と共に全国高等学校蹴球選手権大会(全国高等学校サッカー選手権大会の前身)で優勝。卒業後には慶應義塾大学文学部に進学し体育会ソッカー部に入部。慶應BRB(現役、OBの混成チーム)の一員として1954年、1956年の全日本サッカー選手権大会 (天皇杯全日本サッカー選手権大会の前身)優勝に貢献した。

大学卒業後は東京トヨタ自動車に入社したが、勤務先でサッカー部活動を行ったかは不明。

また1955年に松永碩加納孝らと共に東京クラブに加入。同年の第1回都市対抗選手権優勝、翌1956年も大会連覇に貢献した。

日本代表としても1955年1月のビルマ遠征で代表デビューを飾り、翌1956年6月3日に行われたメルボルンオリンピック予選、対韓国戦では77分に2点目の得点を決めるなど、予選突破に貢献。同年11月27日に行われた本大会のオーストラリア戦にもスタメン出場を果たした。その後も1958年アジア競技大会に出場するなど国際Aマッチ6試合に出場し、2得点を記録した。

2003年4月16日、癌性腹膜炎により死去した[2]

所属クラブ

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代表歴

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出場大会

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試合数

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  • 国際Aマッチ 6試合 2得点(1955-1958)


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1955 3 1 3 1 6 2
1956 3 1 2 2 5 3
1957 0 0 6 4 6 4
1958 2 0 0 0 2 0
通算 8 2 11 7 19 9

出場

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No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 監督 大会
1. 1955年01月05日 ミャンマーの旗ラングーン  ビルマ ●0-3 竹腰重丸 国際親善試合
2. 1955年01月08日 ミャンマーの旗ラングーン  ビルマ △1-1 国際親善試合
3. 1955年01月11日 ミャンマーの旗ラングーン  ビルマ ○1-0 国際親善試合
4. 1956年06月03日 日本の旗東京都 後楽園競輪場  韓国 ○2-0 オリンピック予選
5. 1956年06月10日 日本の旗東京都 後楽園競輪場  韓国 ●0-2(延長) オリンピック予選
6. 1956年11月27日 オーストラリアの旗メルボルン  オーストラリア ●0-2 オリンピック
7. 1958年05月26日 日本の旗東京都 東京蹴球場  フィリピン ●0-1 川本泰三 アジア大会
8. 1958年05月28日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  香港 ●0-2 アジア大会

得点数

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# 年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1 1955年1月11日 ビルマラングーン ビルマの旗 ビルマ体協選抜 1-0 勝利 親善試合
2 1956年6月3日 日本東京 大韓民国の旗 韓国 2-0 勝利 メルボルン五輪予選

出典

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  1. ^ a b 『日本代表公式記録集2008』 日本サッカー協会、2008年、513頁。
  2. ^ a b c 「岩渕功さん死去」 朝日新聞、2003年4月19日、2014年8月7日閲覧

外部リンク

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