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[[燕 (春秋)|燕]]の将であったが、[[項羽]]に従い秦の[[章邯]]に包囲された[[趙 (戦国)|趙]]を救った。そのまま項羽に従い、[[関中]]に入った。高祖元年([[紀元前206年]])、項羽が天下を分けて諸侯を立てると、臧荼は'''燕王'''に立てられ、もともとの燕王だった[[韓広]](趙王[[武臣]]の将)は遼東王に遷された。しかし、その年の内に臧荼は韓広を攻め滅ぼし、遼東を併合して燕全体の王となった。 |
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高祖3年([[紀元前204年]])、趙の[[陳余]]を破った[[韓信]]は、広武君[[李左車]]の進言に従い、兵を休めると共に燕に使者を送った。燕王臧荼は韓信に帰順した。 |
高祖3年([[紀元前204年]])、趙の[[陳余]]を破った[[韓信]]は、広武君[[李左車]]の進言に従い、兵を休めると共に燕に使者を送った。燕王臧荼は韓信に帰順した。 |
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高祖5年([[紀元前202年]])、[[劉邦]]が項羽を倒した後、楚王韓信、[[韓王信]]、淮南王[[英布]]、梁王[[彭越]]、元の衡山王[[呉芮]]、趙王[[張耳]]と共に[[漢]]王劉邦に「皇帝」の尊号を奉った。 |
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その年に漢に対し反乱を起こした。反乱した理由は史書に記されていないが、部下の音詢が謀反を漢に密告したという。<ref>音詢,以燕將軍漢王四年從破曹咎軍,為燕相告燕王荼反,侯。以燕相國定盧綰『漢書 表 高恵皇后文功臣表』</ref>。高祖劉邦自ら征伐に出向き、臧荼は捕らえられて処刑された。臧荼に代わって、[[盧綰]](高祖の幼馴染)が燕王に封建された。子の[[臧衍]]は出奔して、[[匈奴]]へ亡命した。 |
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2022年8月8日 (月) 15:54時点における最新版
臧 荼(ぞう と、? - 紀元前202年)は、秦末から前漢にかけての人物。
略歴
[編集]燕の将であったが、項羽に従い秦の章邯に包囲された趙を救った。そのまま項羽に従い、関中に入った。高祖元年(紀元前206年)、項羽が天下を分けて諸侯を立てると、臧荼は燕王に立てられ、もともとの燕王だった韓広(趙王武臣の将)は遼東王に遷された。しかし、その年の内に臧荼は韓広を攻め滅ぼし、遼東を併合して燕全体の王となった。
高祖3年(紀元前204年)、趙の陳余を破った韓信は、広武君李左車の進言に従い、兵を休めると共に燕に使者を送った。燕王臧荼は韓信に帰順した。
高祖5年(紀元前202年)、劉邦が項羽を倒した後、楚王韓信、韓王信、淮南王英布、梁王彭越、元の衡山王呉芮、趙王張耳と共に漢王劉邦に「皇帝」の尊号を奉った。
その年に漢に対し反乱を起こした。反乱した理由は史書に記されていないが、部下の音詢が謀反を漢に密告したという。[1]。高祖劉邦自ら征伐に出向き、臧荼は捕らえられて処刑された。臧荼に代わって、盧綰(高祖の幼馴染)が燕王に封建された。子の臧衍は出奔して、匈奴へ亡命した。
なお、漢の武帝の実母である景帝王皇后の母は臧児といい、臧荼の孫娘に当たる。
脚注
[編集]- ^ 音詢,以燕將軍漢王四年從破曹咎軍,為燕相告燕王荼反,侯。以燕相國定盧綰『漢書 表 高恵皇后文功臣表』