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'''妙本寺'''(みょうほんじ)は、[[神奈川県]][[鎌倉市]]大町にある、[[日蓮宗]]の本山(霊跡寺院)。山号は長興山。
'''妙本寺'''(みょうほんじ)は、[[神奈川県]][[鎌倉市]]大町にある、[[日蓮宗]]の本山(霊跡寺院)。山号は長興山。
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現住は82世鈴木日敬貫首(墨田区[[法性寺 (墨田区)|法性寺]]より晋山)。池上法縁五本山の一つ。
現住は82世鈴木日敬貫首(墨田区[[法性寺 (墨田区)|法性寺]]より晋山)。池上法縁五本山の一つ。


== 寺宝 ==
== 文化財 ==
*'''[[法華曼荼羅|十界曼荼羅]]''' [[弘安]]3年3月([[1280年]])揮毫。日蓮が池上宗仲邸(現在の[[本行寺 (大田区)|本行寺]])で臨終する際に枕元に掛けられたとされることから、「[[臨滅度時本尊|臨滅度時の御本尊]]」と通称され、日蓮宗の宗定本尊とされる。「蓮」の字の最終画が蛇が這うようにくねっていることから、「蛇形本尊」とも称される。この他、日蓮真筆の曼荼羅2本(弘安3年4月、[[建治]]元年([[1275年]])揮毫)が伝来している。また、妙本寺二世[[日朗]]の曼荼羅([[正和]]2年([[1313年]])揮毫)、妙本寺三世[[日輪 (僧)|日輪]]の曼荼羅2本([[観応]]2年([[1350年]])、[[康永]]2年([[1343年]])揮毫)、[[日像]]の曼荼羅(暦応3年([[1340年]])揮毫)も伝来する。
*'''[[法華曼荼羅|十界曼荼羅]]''' [[弘安]]3年3月([[1280年]])揮毫。日蓮が池上宗仲邸(現在の[[本行寺 (大田区)|本行寺]])で臨終する際に枕元に掛けられたとされることから、「[[臨滅度時本尊|臨滅度時の御本尊]]」と通称され、日蓮宗の宗定本尊とされる。「蓮」の字の最終画が蛇が這うようにくねっていることから、「蛇形本尊」とも称される。この他、日蓮真筆の曼荼羅2本(弘安3年4月、[[建治]]元年([[1275年]])揮毫)が伝来している。また、妙本寺二世[[日朗]]の曼荼羅([[正和]]2年([[1313年]])揮毫)、妙本寺三世[[日輪 (僧)|日輪]]の曼荼羅2本([[観応]]2年([[1350年]])、[[康永]]2年([[1343年]])揮毫)、[[日像]]の曼荼羅(暦応3年([[1340年]])揮毫)も伝来する。
*'''釈迦如来像''' 竹御所の供養堂であった新釈迦堂にあったもの。新釈迦堂は天保年間に祖師堂左手に移築されたが、関東大震災にて倒壊し、今日では霊宝殿となっている。
*'''釈迦如来像''' 竹御所の供養堂であった新釈迦堂にあったもの。新釈迦堂は天保年間に祖師堂左手に移築されたが、関東大震災にて倒壊し、今日では霊宝殿となっている。
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== 境内 ==
== 境内 ==
[[File:妙本寺総門.jpg|thumb|200px|総門]]
*'''一幡の袖塚''' 比企の乱後、焼け跡の中からわずかに見つかったという袖をまつる。戦火の中、6歳で死んだ一幡の袖だという。
*'''一幡の袖塚''' 比企の乱後、焼け跡の中からわずかに見つかったという袖をまつる。戦火の中、6歳で死んだ一幡の袖だという。
*'''比企一族供養塔''' 祖師堂横に並ぶ。
*'''比企一族供養塔''' 祖師堂横に並ぶ。
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日蓮宗は昭和16年に本末を解体したため、現在では、旧本山、旧末寺と呼びならわしている。
日蓮宗は昭和16年に本末を解体したため、現在では、旧本山、旧末寺と呼びならわしている。
*常光山[[妙勝寺 (福岡県双葉町)|妙勝寺]](福島県双葉郡双葉町大字新山字下条)
*常光山[[妙勝寺 (福岡県双葉町)|妙勝寺]](福島県双葉郡双葉町大字新山字下条)
*朝日山[[法圓寺]](栃木県上都賀郡西方町大字元)
*朝日山[[法圓寺]](栃木県栃木市西方町元)
*長祐山[[妙福寺 (町田市)|妙福寺]](町田市三輪町)
*長祐山[[妙福寺 (町田市)|妙福寺]](町田市三輪町)
*妙香山[[常安寺 (川崎市)|常安寺]](川崎市麻生区上麻生)
*妙香山[[常安寺 (川崎市)|常安寺]](川崎市麻生区上麻生)

2021年6月11日 (金) 15:58時点における版

妙本寺
祖師堂(市指定有形文化財)[1]
所在地 神奈川県鎌倉市大町1-15-1
位置 北緯35度19分3.3秒 東経139度33分20.9秒 / 北緯35.317583度 東経139.555806度 / 35.317583; 139.555806座標: 北緯35度19分3.3秒 東経139度33分20.9秒 / 北緯35.317583度 東経139.555806度 / 35.317583; 139.555806
山号 長興山[2]
宗派 日蓮宗
寺格 霊跡本山
本尊 三宝尊
創建年 文応元年(1260年)
開山 日蓮[注釈 1]
開基 比企能本[2]
札所等 日蓮聖人霊跡
文化財 銅造雲版(重要文化財)ほか
法人番号 3021005001978 ウィキデータを編集
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臨滅度時の御本尊

妙本寺(みょうほんじ)は、神奈川県鎌倉市大町にある、日蓮宗の本山(霊跡寺院)。山号は長興山。

歴史

妙本寺のある谷戸は、現在は比企谷(ひきがやつ)と呼ばれ、鎌倉時代には比企能員一族の屋敷があった。比企能員は、源頼朝に仕えた御家人で、頼朝の乳母・比企尼の養子にあたり、妻は源頼家の乳母、娘の若狭局は頼家の妻となり頼家の子・一幡を生むなど、源氏とは深い関係を持った。このため、頼朝の妻・北条政子の実家である北条氏とは対立するようになった。1203年(建仁3年)頼家が病気で倒れると、次の将軍を誰にするかで、千幡(後の源実朝)を推す北条氏と、若狭局が生んだ一幡を推す比企氏の間で争いが起きた。能員は頼家と北条氏討伐を謀るが察知され、名越で殺害され、比企一族は比企谷の谷戸(小御所)に篭って北条氏らの軍勢と戦うが敗れ、屋敷に火を放って自害した(比企能員の変)。若狭局は、池(蛇苦止の池)に身を投げて自害し、一幡も戦火の中で死んだ。

能員の末子・能本は生き残り、後に京都へ行き、順徳天皇に仕え、承久の乱で順徳天皇が配流になると、佐渡まで供をした。彼の姪にあたる竹御所(源頼家の娘)が4代将軍九条頼経の妻になったことから許されて鎌倉に帰った。1234年(文暦元年)竹御所は出産時に死去する。自仏像であった釈迦如来像を祀るため、新釈迦堂の建立を遺言する。1235年(嘉禎元年)新釈迦堂が建立する。竹御所は新釈迦堂のその下に葬られた。1243年(寛元元年)仙覚が新釈迦堂の寺住となる。1246年(寛元4年)仙覚は万葉集の校訂を成し遂げる[3]。1253年(建長5年)能本は日蓮に帰依する。1260年(文応元年)能本は菩提を弔うため、日蓮に屋敷を献上し法華堂を建立する。これが、妙本寺の前身である。その後、日蓮の弟子・日朗が妙本寺を継承した。以後、日蓮宗の重要な拠点となった。

当山と池上本門寺は、1941年(昭和16年)まで一人の住職が二ヶ寺を管理する「両山一首制」によって護持されていた。池上本門寺創建から安土桃山時代までの約300年間は当山を本拠地として貫首が在山したが、1591年(天正19年)、両山12世・日惺が徳川家康の江戸入府に伴い池上本門寺に本拠を遷した。この為、貫首不在となった当山には別当職に相当する「司務職」を置き比企谷全山を総理統監させた。なお歴代司務職には塔頭首座・本行院の住職が就任する慣わしとなった。

1842年(天保13年)天保の改革にて廃寺となった感応寺厨子を移設する。江戸初期の弾圧までは不受不施派の末寺を多く抱えていた。26寺で末寺の68%を占めていた。2004年(平成16年)由緒寺院から霊跡寺院に昇格。

現住は82世鈴木日敬貫首(墨田区法性寺より晋山)。池上法縁五本山の一つ。

文化財

  • 十界曼荼羅 弘安3年3月(1280年)揮毫。日蓮が池上宗仲邸(現在の本行寺)で臨終する際に枕元に掛けられたとされることから、「臨滅度時の御本尊」と通称され、日蓮宗の宗定本尊とされる。「蓮」の字の最終画が蛇が這うようにくねっていることから、「蛇形本尊」とも称される。この他、日蓮真筆の曼荼羅2本(弘安3年4月、建治元年(1275年)揮毫)が伝来している。また、妙本寺二世日朗の曼荼羅(正和2年(1313年)揮毫)、妙本寺三世日輪の曼荼羅2本(観応2年(1350年)、康永2年(1343年)揮毫)、日像の曼荼羅(暦応3年(1340年)揮毫)も伝来する。
  • 釈迦如来像 竹御所の供養堂であった新釈迦堂にあったもの。新釈迦堂は天保年間に祖師堂左手に移築されたが、関東大震災にて倒壊し、今日では霊宝殿となっている。
  • 木造日蓮聖人像 祖師堂に安置。
  • 銅造雲版 国の重要文化財

境内

総門
  • 一幡の袖塚 比企の乱後、焼け跡の中からわずかに見つかったという袖をまつる。戦火の中、6歳で死んだ一幡の袖だという。
  • 比企一族供養塔 祖師堂横に並ぶ。
  • 前田利家室塔 前田利家の側室、三代利常の母千代保の方の供養塔と伝えられる大五輪塔
  • 蛇苦止堂 比企の乱で井戸(一説に池)に飛び込んで自害したという若狭局を祀る。自害した若狭局は、後に北条政村の娘に霊となって憑き、日蓮によって供養され祀られた。
  • 蛇苦止の井 若狭局が身を投げたという井戸
  • 祖師堂 鎌倉最大級の木造仏堂建築。
  • 万葉集研究遺跡の碑 仙覚が成した、現在の万葉集研究につながる重要な研究を顕彰したもの。
  • 祇園山ハイキングコース 裏手墓地から祇園山ハイキングコースの途中につながる。
  • 祖師堂の前の海棠 初春(桜のあと)に咲く。女性をめぐって喧嘩していた中原中也小林秀雄はここで和解した。

歴代住職

塔頭

旧末寺

日蓮宗は昭和16年に本末を解体したため、現在では、旧本山、旧末寺と呼びならわしている。

鎌倉妙本寺懐古

国木田独歩は「鎌倉妙本寺懐古」という詩を作った。これには曲がつき、戦前の教科書に採用されて親しまれていた。境内の芙蓉の花が歌われている。

夕日いざよふ妙本寺、法威のあとを弔へば、芙蓉の花の影さびて、我世の末をなげくかな。法よ、おきてよ、人の子よ、時の力をいかにせん、永劫の神またたきて、金字玉殿いたずらに、懐古の客を誘ふかな。梢の鳩の歌ふらく、ありし昔も今も尚ほ、夕日いざなふ妙本寺、芙蓉の花は美なるかな。

交通

ギャラリー

脚注

注釈

  1. ^ 『新編鎌倉志』では日朗を開山としている[2]

出典

  1. ^ 文化遺産オンライン
  2. ^ a b c 新編鎌倉志 1915, p. 123.
  3. ^ 校訂本奥書『寛元四年十二月廿二日於相州鎌倉比企谷新釈迦堂僧坊以治定本書写畢』

参考資料

  • 山中喜八『日蓮聖人御真蹟の世界』雄山閣(1992年)
  • 中尾尭、寺尾英智監修『妙本寺文書』本山比企谷妙本寺(2002年)
  • 神奈川県立博物館、日蓮宗神奈川第二宗務所『特別展 鎌倉の日蓮聖人 中世人の信仰世界』神奈川県立歴史博物館(2009年)
  • 河井恒久 等編 編「巻之七 妙本寺」『新編鎌倉志』 第5冊、大日本地誌大系刊行会〈大日本地誌大系〉、1915年、123-124頁。NDLJP:952770/76 

関連項目

外部リンク