【 NDLJP:6】
緒言
老人雑話は、永禄八年に生れて、寛文四年に百歳の高齢にて逝ける、専斎江村宗具の雑談を、其の孫宗恕の筆記せるもの、天正慶長頃の事実を伝へて、頗る憑拠とするに足る。専斎は京師の儒医、倚松庵とも号す。始め加藤清正に仕へ、後森美作守に仕ふ。和学を好み、和歌を善くし、細川幽斎木下長嘯子等と交る。
大正元年八月一日
古谷知新識
目次
【 NDLJP:220】
老人雑話序
読書友古と、まことなるかな、書は万代の宝温故知新なれば、むかしがたりをめづらしとおもへばなり。爰に我曽祖父倚松庵先生は、永禄八年乙丑にむまれ、寛文四年甲辰季夏下六日に没す。寿すでに百歳に満てり。其始加藤肥州につかへ、其後森作州に遊事す。医術をもつて京師に居せり。誠に奇代の長寿なりとて、
後水尾上皇勅して御杖を賜ふとなり。〈その時の和歌并に辞世の歌子孫に伝ふ。〉されば老人の雑話を、伊藤宗恕書きとゞめられし一冊あり。其書きたるを見れば、老人に対話する心地して、閑居の友となり、古を追慕するのみなり。宗恕寿八旬有余、老人の孫婿坂口法眼立益これを繕写す。今年米年なり。寿を世々に伝ふにあらずや。われ又是を書して古人の言葉を賞するのみ。
正徳三癸己年暮春望日
武陽 滄洲題
【 NDLJP:221】
老人雑話
乾之巻
老人は江村専斎也。諱宗具、業医。初加肥牧に事へ、後藤森作牧に事ふ。永禄八年光源院殿乱の年生れ、寛文四年九月没す。満百歳也。
五山の大詩会を短冊切と称す。
南禅寺伝長老の時、短冊切の会あり。
龍山賞雪と云ふ題にて詩を
作る。其のち
絶てこれなし。会の
式は五
岳の
長老及西堂に会し、早朝粥を供す。さて
題評と云ふことあり。
出席の人各題一つを書て一座を互に回し、
可然を其日の題に定るを云ふ。題定て後、その題を
上座の
壁に
貼す。偖引合の紙を広げ短冊に切て、三枚
重ね、面々の
前に置く。硯、筆架、水滴等尽して面々に
供す。詩成て
草稿を一座の衆回し見て後、
浄書して
座心の
文台に
載す。其後五
岳より一人づつ出て吟ず。五山の
吟声各殊なり。詩事
畢て大饗あり。
乱舞酒宴夜に
入とぞ。
遊行上人の始祖を一
遍上人と云ふ。隆蘭渓に法を聞く。歌学に
勝れたり。是故に、今に至て其
法流の者
連歌をせり。昔或人一遍上人を
嘲て云ふ、
躍念仏をなすは、仏の
踴躍歓喜と云へる意なるべし。然れども
是のみにて
成仏いぶかしと
云。上人
和歌を以て
答云。
【 NDLJP:222】
はねばはね躍らば躍れ春駒の法の道にははやきばかりぞ
是等の事書きたる書一巻ありとぞ。
多武峯の事、鎌足入鹿を討せんと欲する時、帝と此山に入て談合す。是故に峯を談山と云。鎌足を祠て談山権現と云。談と多武と声相近を、又入鹿を討て武功多しと云心にて、多武峰と云。
老人少年の時、洛中に四書の素読教る人無之、公家の中、山科殿知れりとて三部を習ひ、孟子に至て、本を人に借し置たりとて終に教へず。実は知ざる也。
右の時分、外家の道伯と云人論語を講談す。惺窩も惺窩の伯父宣首座〈相国寺普光院の僧薫の弟〉も、老人と同く毎度講席に出づ。此時分妙心寺の南化、天龍寺の策彦名あり。
五摂家正統絶ゆる時は、清華の家の人、又其れより下等の家の人なりとも嗣こと例なり。親王家の人を以嗣しむること法に非ず。其故は摂家の人は、初少将より歴昇るが例なり。方今近衛殿、一条殿、親王家の人を以嗣がしむるは非也。上の私也。
立売の町人所持定家卿筆の新勅撰、細川幽斎求められし時、直白銀拾錠なり。其時第一の買主也。今は烏丸の家にあり。
宗祇は今より百四五十年以前の人也。其時会の給仕などせし者に、成菴と云へるあり。老人は其成菴に会すとなり。連歌の式定りて、盛んになりたるは宗祇より也。其以前は百句満ること稀にて、只言捨のやうに有しと也。
連歌師の次第
昌休─┐ ┌─昌叱紹巴の弟子───── ┐ 昌琢 昌程
┌───┘ │┌───────┘
└─紹巴昌休 弟子─┘└─玄仍昌叱 の婿 玄的
貫之自筆の土佐日記は、蓮華王院の仕物也しを、定家卿写せる本、連歌師玄的所にあり。今は加賀の家蔵となる。定家の写本全く自分の筆力にうつし、末二三葉をば、貫之が自筆の本の大さ字の形をも模して書れたり。是は後の世に、貫之が書法を不知者、是を法とせん為とて跋に書く。是を以て見れば、貫之が自筆は、定家の時さへ至て稀也と見えたり。今時往々に人の家に、貫之が真跡とて所持するは可笑事也。定家の時までは、貫之自筆の本これあると見えて、其本の大さをも図してあり。貫之の本は今は絶ぬ。定家の本は老人度々見たりしに、貫之書法かはりたる字様也。今時の贋物とは似たる物に非ず。定家の本は今は加賀より八条殿へまゐらすとぞ。
得長寿院は、今の三十三
間堂にあらず。
鳥羽院の御造営なれば、昔鳥羽に
有けんかし。
蓮華王院は
後白河院の御造営にて、新千体仏を
安置す。今の三十三間堂也。増鑒拾芥抄にも
明か也。大仏の
寺号は方広寺なり。
【 NDLJP:223】二条院の小池の御所は、今の室町の小池の町也。御所は応仁の乱の比焼失し、老人幼少の時は、小池の跡遺れり。小池より泉湧出て四条へながれ、今月鉾の町より西へ流る。小池の辺には庭の石など残り、大松に藤などまつへる有。二条殿は傍に小さき屋を造りて御座す。二条の御所に十境の名あるも、此小池の御所也。信長の時に二条殿をば、報恩寺〈今の近衛殿屋舗歟〉を易へ地にして移し、小池の御所を取立て、屋形を結構し、小池に反橋などをかけ、島丸通に東の壁をかけ、室町の東側の町家はありて、町家の後に長壁をかけたり。門は南面也。此御所成就して、暫く信長住して、頓て陽光院へ献ず。陽光院殿は後陽成院の御父也。春宮にて御即位に及ずして崩じ給ふ。陽光院御遷の時、老人も新在家六町中の役に差れて供奉したり。養安院玉翁も故ありしにや供奉す。織筋の賽目隔子の服を著す。老人と同年にて、十三歳の時なりと語られし。信長は此御所を陽光院殿へ進し、又如前上京の時は妙覚寺に旅館す。妙覚寺は今の室町薬師町にあり。小池の御所の隣なり。
老人幼なかりし時、延寿院玄朔は、已に壮年にて、故道三の世嗣とて、洛中医師の上首也。人々敬慕す。故道三は其時はや耳遠く、療治もたえ〴〵にて隠居せる故也。玄朔盛んに療治はやりて方々招待す。その時は肩興と云物なくて、大なる朱傘を指掛させ、高木履にて杖をつき、何方へも歩行す。人人羨むことにて有しとぞ。
公方霊陽院殿、信長へ敵対し、京尽く焼亡せしは、老人九歳の時也。それより以後の事は、大方に記憶すと語れり。時に八十九歳なり。実に承応二年癸巳なり。
秀頼五歳の時参内有。伏見より行列をなす。太閤二三日前に入洛ありて、中立売最上殿の屋敷に御座す。参内の日に迎に御出あり。室町通を南へ指す。見物群集す。太閤立髪の馬に駕り、むりやうの闊袖の羽織に鳥を背縫にし、襟は摺箔也。底なしのなげ頭巾を着せり。馬の左右に五十人計徒立あり。半町計間ありて、又者千人計従ふ。大仏辺にて秀頼公に御出合ひ、太閤興に乗移り、秀頼を前に置けり。銭を筥へ入れば舞る人形を興の先にもたす。諸大名は大房の馬にのり、二行に供奉す。是は聚洛の城終て後中一年ありての事也。
太閤肥前の名護屋に御座す時、呉松越後と云能大夫御見舞に参り、其時より能を御すきありて、御自分にも度々なさるゝ事也。
太閤禁中において、能をなされし時、呉松は立合に能をせり。呉松能をする時は、太閤長柄の刀を帯し、虎の皮の大巾着を下げて、橋かゝりの中程に立ながら見物す。能はてけるにも其儘立給ふにより、大夫装束を著ながら、腰をかゞめて通りけるとぞ。
或時太閤馬に騎て、烏丸通を参内す。新在家の下女四五人、赤前垂を掛て出て見物す。太閤馬上より見て云、只今我内裡にて能をすべし、皆々見物にこよと。
太閤禁中にて能ある時、
猿楽に被物下さるれば、同様に出て
拝領し、肩にかけて入給ふとぞ。
【 NDLJP:224】太閤全盛の時、何事も人のなすことをば、皆是をなせり。式法の歌の会あり。其時は装束にて上段に座す。友古と云者御前に近づき、感じたる体にて退き、座中へ歌を唱ふ。皆友古が詠る也。
蒲生は江州の士なり。佐々木承禎の臣なりし。後信長に事へ、又太閤に仕ふ。氏郷は勝れたる人也。始は勢州松坂にて十二万石を所領す。夫より直に会津百二十万石を領す。太閤の時也。此時四十歳計也。承禎は江州一ヶ国を領して大名也。信長に滅されて江州を取らる。承禎の子は四郎殿とて、太閤の時は咄の者に成て知行二百石也。蒲生は其臣たりしが、百万余石を領す。伏見などにて太閤の御前に侍て、退参の時、氏郷昔を思て、刀を持て従はれし事ありしとぞ。蒲生江州にて承禎の臣たりし時は日野を領す。氏郷父は頑愚にして天性臆病の人なり。其時俗間の小歌に、日野の蒲生殿は、陣とさへ云やへをこきやると云しは、此人の事也。
赤松乱と云は、普光院殿を弑する時のこと也。始め山名と赤松と相並んで普光院殿に出仕す。或時庭前に枯たる松有しを、山名見て云、あの赤松斬て捨申さんと、公方の前にて云。赤松さしも歌学に達し、口利き者なれば、山なをかと云へり。山名にあてゝなり。是より弥中あしく、終に普光院殿を弑す。此赤松は円心が三男律師則祐が子孫也。満祐と云。此事の首尾具に書に見えず、人の物語に云伝ふなり。
美濃三人衆とて、かくれなき武勇の名ある者あり。信長の臣也。一人は稲葉一徹〈今の能登守五代の先祖右京の父也。〉一人は氏家卜全〈是に大垣に居る。〉一人は伊賀伊賀守也。
斎藤内蔵助は、春日の局の父也。明智日向守家臣也。一乱に生捕れて、大路をわたし誅せらる。
斎藤山城守は、山崎の油商の子也。父と妻とを率ゐて、美濃に往て住し、山城守を生む。遂に土岐
〈美濃の国主〉に取入て仕へしが、土岐末に成り、国も乱れけるに、如何したりけん遂に美濃の国主と成る。其時の落書に、
ときはれとのりたちもせず四の袴三のはやぶれてひとのにぞなる
と云り。信長の婦翁なり。山城守が子に義龍と云あり。父に恨有て弟両人を殺す。父の狩に出しをたて出し父と合戦す。山城遂に子と対戦して討死す。義龍が子に龍興と云あり。極て痴人也。此時に信長遂に美濃を奪取れり。
滝川左近は、関の城、亀山の城、長島三ヶ所を所領す大名なり。太閤柴田を攻給ふ時、後巻をせんとす。柴田敗らるゝを聞、太閤に降参す。後三七殿と不和に成て合戦ありしとき、抜群の忠節を尽さんと思ふ。蟹江の城は東照宮の方也。此城主に内通して心替りをさせて、滝川此城へ入らんとせし時、勢州より船に乗て往けるに、俄に潮干て船著事を得ず。左近は病中故肩興にてやう〳〵城に入り、従ふ者は多く入る事を得ず。船にて漾ふ内に、東照宮急に取かけて皆殺せり。滝川はあつかひに成り味方に属し、太閤の方を又たばからんと約して、命は助りけれども、余り成事とや思ひけん、妙心寺に入て【 NDLJP:225】落髪出家す。後越前に往て死す。信長の時は、天下の政道四人の手にあり。柴田、秀吉、滝川、丹羽也。左近武勇は無双の名ありて、度々関八州を引受て合戦す。関八州の者は滝川の名を聞ても、おそれし程なりし。末に至て散々の体也。
本多三也は、無隠武勇強直の士也。本多美濃守の家臣たり。後蒲生氏郷に属す。蒲生殿筑紫の岩石の城を攻られし時、氏郷貝を吹かれければ、三也云、腰抜の吹は鳴らぬ物ぞとて、引奪て音高く吹。帰陣の後氏郷是を意趣に思ひ、或時三也禁所にて鳥を打たるを辞にして、三也屋鋪を取かこんで誅せんとす。折節都筑惣左衛門とて、東照宮摩下の武士通り合せ其故を問ふ。しか〴〵と答ふ。大知音なれば、鎗一本を持て、三也宅へ駆入れば、攻る者氏郷に注進し、此者どもに討取んやと云。如何有んとて、二人ともに逃せよと云、遂に命を全うす。此都筑は面相天然猿に似たる人也。今に麾下に其子孫有り。
二条の城は、関ヶ原陣過て頓て造れり。
鎧を着る事、昔は人不鍛錬にして、天井に釣て、下より我身をいれしと云。人の笑草に云ふこと也。武事鍛錬の人に問へば、急成時は釣て置て、下より身をいるゝこと尤よろしとぞ。
元和三年の比、近江の湖より星出て、空にとんで数百丈にたなびきし事有、人皆彗星かと云。
慈照院殿の時、春日の局と云女あり。彼が所為にて、応仁の乱起り天下騒動す。近来の春日局の号は、是を考ずして然るか。
丸山豊後有㆓武勇名㆒、仕㆓備前富内少輔㆒、毎直員不㆑避㆓忌諱㆒、一日大臣変、宮内少輔起更㆑衣、加藤主膳執㆑刀近侍、主膳少輔所㆑寵男色、豊後謂㆑之曰、行便時雖㆓大人㆒豈不㆓気泄㆒哉、勿㆓逼近㆒云、少輔聞㆑之笑而不㆑止。
斎藤内蔵助天性狼復の人なり。春日の局の父明智が臣なり。信長も能知る。信長信玄を討て帰りて、富士山を観て云、内蔵助は是をも小芋〔小さしイ〕と云んと云へりとぞ。内蔵助は元来稲葉一徹の臣也。明智左馬之助も同じ。日向守呼取て一万石を与ふ。一徹怒て信長に愬ふ。日向守是より奥丹波へ遣し、加増して二万石与へけるとぞ。
長尾謙信が、信玄をほろぼさん談合せんとて、紙子一つ小脇指一腰にて、山越に越前の朝倉が許へ往くこと有とぞ。
信長、美濃斎藤が所へ婿入の時、
広袖の
湯帷子に、
陰形を大に染付て着し、
茶筅髪にて往く。山城守が家老等国境まで迎に
出て、其様を見て
胆をつぶし、
密に云ふは、此様の人に七五三の
式法などは不都合ならんとて、早使を返し、田舎家具の大なるなどを用意せよと云。信長宿に
着て、
束帯正しく
調て山城に対面す。又驚き騒ぎ、もとの七五三の式法を用ゆ。此時山城
嘆じて云、我国は
婿引出物に仕たりと。其心は我子共など国を
保つことあたはじ。信長に
取れんと思ふ也。
【 NDLJP:226】信長の士、市橋下総守は放狂の者也。若狭の武田家より信長へ使者あり。威儀正くして広間に控へたり。下総のぞき見て、如何さま仕付方知り顔にて、見たくもなき奴也とて、使者の前に出て、仰ぎ臥て足を使者に向け、手を以て陰嚢を捫て、御使者是程の餅をばいかほどやらんと云へり。後信長聞て笑て不止とぞ。
高麗陣の時、太閤日根野備中を高麗へ使に遣す。備中甚貧く支度成がたし。三好新右衛門を媒介にて、銀を黒田如水に借る。如水銀百枚を貸す。備中帰朝して新右衛門と同道し、如水へ往て礼を云。銀百枚外に拾枚を持参す。利息の心なり。如水対顔し、暫くありて人を呼て、さきに人の呉たる鯛を三枚におろし、其骨を吸物にして酒を出せよと云ふ。両人心に不足す。酒訖て三好銀を取来て礼を云。如水云、初より貸す心無し、合力の心なりとて、再三強ても取らず。二人甚だ感じて帰りけるとぞ。
太閤小田原陣の前に、関東土地の図を見る。東照宮近侍す。時に真田阿波守末席にあり太閤云、阿波来て図を見よ、汝を中山道の先手に云付るといへり。此時は家康と同輩に呼て、図を見せ給ふこと国郡を何程拝領したらんよりも忝かりしと云。阿波守は伊豆守が父也。東照宮と意趣ありて、中悪き人也。其後太閤阿波を近う召て云、汝家康へ礼に往て間をよくすべし、長き物には巻れと云事あり、旅にて不如意ならんとて、袷二拾進物までを遣され、富田左近を副て遣さる。太閤の仰なれば、東照宮も是非なく対面せらる。後富田に逢て、東照宮云、先日の事は是非に及ばず。重て石川伯耆を此様に仰付られぬ様に、取成し頼むとのたまふとぞ。此人又大に意趣ありて間悪し。然れども是も又小田原陣中にて礼に被遣しとぞ。
志津ヶ岳の時、桜井左吉が高名比類無。七本鑓にも勝れり。早く病死する故に人知らず。
太閤の別種同腹の弟を大和大納言殿と云。大和、紀伊、和泉三ヶ国に封ず。初め志津岳の合戦、中川敗死の時、見ながら救はず、首尾あしゝ。太閤怒て諸大名の座中にて、身と種ちがつたりと宣ふとぞ。大納言殿子無くして、秀次の子を養子とす。大和中納言と云。
長岡玄蕃云、吾れ関ヶ原の時、引て退く馬武者を見て廻せと云ければ、即立帰てくむ。組しかれて已に首を取られんとせしに、郎等一人来つて引のけて、吾に首を取せけり。危き目を見たり。足をみださず引武者には、必廻せと云ふべからざる者也と云へりとぞ。玄蕃度々の功あるもの也。
関ヶ原の時、薩摩の島津兵庫〈今の島津祖父治部少輔也。〉引けるを、本田中書、井伊兵部見て、中書は其儘逃さんと云、兵部は今あの逃る武者を逃す所にては有まじとて、廻せと声をかく。兵庫其まゝ取てかへし、鉄砲の者に撃せけり。兵部は手にあたる、中書は馬にあたりて落けりとぞ。
小田原開陣の後、太閤諸将を会して宣ふは、会津は関東八州の要地、勝れたる大将を置て、鎮めではあたはぬ地也。各遠慮無所存を書付て見すべしと云。〈今は左やうのことを入札と云。その時分はかくし起請と云。〉細川越中守可然と云者十に八九人。太閤ひらき見て云ふ、汝等愚昧甚し。吾天下をたやすく取こと理也。此地は蒲生忠三郎【 NDLJP:227】ならでは可置者なしとて、忠三郎を置く。
太閤心も辞も行跡も、少も吝さかなることなき生質也。然ども加藤遠江甲州一国を賜ひ、遠江死て即取上げ、其子に二万石を与ふ。丹羽五郎左衛門に七十万石を賜ふ。死て即六十五万石を取上げ、四万五千石を其子五郎左衛門に与ふ。蒲生飛弾に会津百万石を賜ひ、四郎兵衛公事以後八十万石を取上げける。
山城の内山里と云所を、梅松と云坊主に預けらる。新に松を植、程も無に松蕈生じたりとて献上す。太閤笑曰、吾威光誠にさもあらんと云。其より数度献ず。実は他所より求て献ず。太閤左右の者に云、もはや松蕈献ずることやめさせよ、生ひ過るとのたまふとぞ。
太閤初め微賤の時、衆中に刀を失ふ人あり。太閤貧きに因て人皆疑ふ。因㆑之太閤城下の民家に至て偏く問ひ、質家に有しを尋出し、鞠問して姦人を執へて、信長の狩に出る時訴らる。信長感じて初て微禄を与ふとぞ。
志津ヶ岳の軍は、太閤一代の勝事、蟹江の軍は東照宮一世の勝事なり。太閤其時岐阜に在て、佐久間玄蕃、中川瀬兵衛を攻るを聞き、飯を喫するを待たずして往く。途中百姓に令して粥をたかしむ。東照宮は、敵滝川左近一益伊勢蟹江の城へ取籠る由の注進を聞、沐浴して有しが、浴衣を著ながら馬を出す。纔に跡従ひ行者井伊兵部也。滝川やう〳〵船より上る。軍兵ども秘蔵の小姓などは猶舟にあり。東照宮の軍兵已に至て急に攻め、舟中の精兵多く討たる。左近わづかの兵を以て城に入、城たもつことあたはず逃去。
東照宮、太閤に馬をつなぎ給ふ後、関八州を与ふと云へども、実は六ヶ国半也。常陸をば佐竹に与る也。
上野の佐野、殊外富饒の地也。太閤東照宮を関東に封て後、佐野修理大夫を此に封ず。修理多才のもの也。上野半国を修理に与ふと云とも、佐野彼に属すれば皆取たる同事也。
太閤、東照宮を関東に封じて後、甲州を信義不二の加藤遠江に与ふ。遠江高麗にて病死すと注進ありて、即日に浅野弾正に与ふ。甲州は関東の押へ第一の要地也。
太閤小田原開陣の後、蒲生飛弾守を会津へ封ず。会津は大事の要地也。且上野より路通じて、若武蔵相模に事あれば、上野佐野より一檄を伝へて、少も働さざるため也。
駿河一国十八万石を中村式部に与ふ。式部六千石宛十人にあたへ、其外多く人数を貯ふ。式部常に云ふは、若関東に事有時は、吾人数を率ゐて、豆州に出て戦はん。城中に一人も残さじ。太閤の人を呼寄て城を守らしめんと。
石田治部少輔、太閤御存生の時、権柄を専にする故に、人を讒すること多し。是故に諸大名恨有もの少なからず。太閤御他界の明年に、伏見にて已に事起り、早石田が館へ押寄伐亡さんとて、今晩か【 NDLJP:228】明晩かと云程に有しを、東照宮和議に入りて宣ふは、先左あらんことに非ず。治部を沢山に遣し置て、少も国政に参与させじとて、途中を護して沢山に遣す。治部沢山にて二十万石領知す。此時治部を伐果さんとせし統領は、加藤肥後、福島左衛門、加藤左馬、竹中丹後等也。治部は東照宮の恩を蒙りたる者なり。
藤堂和泉守、当家の者と云へども、諸臣を待すること太閤の流なり。暇を乞者あれば、明朝茶を申さんとて、其座にて佩刀を与へ、往先おもはしからずば、又吾許へ来れ申通ぜんとて、少も留ざりけり。一度他に仕へて亦来りければ、本地を与ふる者多かりしとぞ。
石田慶長庚子の一事、其時まで知る者なし。前知る者は加藤肥後守一人也。是故に東照宮、景勝追討のために関東へ進発、時に肥後守達て留む。石田必異心あらんと云。東照宮信ぜずして遂に発す。是故に諸将皆従て往き、肥牧一人国に帰る。
景勝追討の時、相従ふ大名七人、少名四十六人、惣て上方御譜代ともに五十三頭なりといふ。江戸一日ほどいでて、小山に至て上方より注進あり、石田謀反し、日本一味すと。東照宮及諸将大に震〔驚イ〕て云ふことあたはず。即日江戸に帰りて評定あり。上方御譜代家各一人宛召出して略を問。答ることあたはず。上方衆の中、只福島左衛門一人前んで云。太閤遺言の如く、秀頼を立給はゞ、前手を致さんと云。諸将是時に皆同す。左馬も言ことあたはず。福島言出して後、吾心も如此しと云。譜代の衆一人も言出す者なし。只井伊兵部進んで云、我先手致さんと云。評定畢て後、諸将皆云ふ、妻子人質と成てあり。此為なる程に、一旦偽て降参せんと云。東照宮許す。諸将討立て上方へ上る。然れども東照宮の後陣至らず。七月に事起りて、九月に漸至る。美濃青野野ヶ原にて合戦有しに、初は治部方利有り。後に筑前中納言殿岐阜を以て降参す。是故に敗軍す。
明智信長を弑する時、太閤は討手に出られ、高松の城より帰る。路次尼崎の寺に入て、法体して上り給ふ。素衣白馬の心なり。其寺今に寺領ありとぞ。
太閤に諸大名出仕すれば多留て饗す。或は碁象戯、或は乱舞、好に随て遊ぶ。太閤常に云、能き夢を見する哉と口癖に宣ふとぞ。
太閤常に身を軽うす。徳善院諫む。太閤云、天下に我に勝る主なし、誰か謀反せんと。
肥後の天草宇土の城を、故肥後守攻らるゝ時云ふ、出て戦はん者一人も覚えず。南条玄沢〔玄蕃イ〕一人出づべし、各討取れと下知す。案の如く玄沢出て戦ふとぞ。宇土の城は小西摂津守が居城なり。玄沢は小西が臣、領知三千石なり。
陣小屋を取おきにして、馬二駄に付るやうに拵たるは、細川越中なり。一間半に五間也。柱は樫の木を細くし、根に鉄を以石突をなす。上四方は桐油布也。本国と江戸と京と三ヶ所にこしらへ置けり。
明智坂本に城を築く時、三甫と云者、波間よりかさねあげてや雲の峯といふ発句をす。明智脇の句に、【 NDLJP:229】磯山つたひ茂る杉村と付る。明智歌学に達す。
小牧陣の時、先手より御馬を出されよと云来。太閤其時、伏見にて利休が茶の会の座にあり。路次より出て尻をまくり、えいや〳〵と云て、直に出陣し給ふ。
松永霜台籠城の時、信長討手に太閤を遣す。箇条書を以注進す。某日外側を破る、某日二の丸を破る、某日本丸を破る、某日霜台が首を取ると、祐筆如何あらんと云。太閤云、かくせずば信長我を生さじ。若ならずば死んと云。其日期の如く無理に討破り、首を筐に入て信長に報ず。信長云、是偽ならん。霜台は首に成ても、我前へ来る者に非ず。筑前才智〔上気イ〕にて此事をなすと云。籠をひらけば果して然り。霜台つひに降せずして、鉄砲の薬に火をかけ自ら焚死す。
太閤の柴田勝家を征する時、城に火の手上るを見て、其まゝ越中へ赴き、佐々陸奥守を征す。勝家が首を見ざれども、左様のことをも何とも思はれざる也。神速無比の人なり。
堀左衛門、家に哭面の武士を扶持す。人不用の物と云。左衛門が云、弔に遣すに可㆑然。人の家に長物〔あまりものイ〕はなきものとぞ。
堀左衛門傑出の人也。太閤甚愛す。早死す。太閤の心には、かれ死せずば関八州を与へんと思へりとぞ。
大事の使を両人に命ずる事も、左衛門なすこと也。家臣に堀監物と云者も勝たる者也。丹後父也。左衛門死する時、跡目の事遅々也。監物怒て云、左衛門多年の勲功あり。跡目立られずば、某参て御前縁を汚さんと云。遂に跡無㆓相違㆒。子は久太郎也。愚甚し。
太閤万事早速也。或時右筆醍醐の醍の字を忘る。太閤指を以て大の字を地に書して云、汝知らざるか此の如く書べしとぞ。又高麗の軍中に、奉書など下さるゝにも、継たる紙に書、又は悪き所を墨にて消し、是にて往けとて遣さるとぞ。〈一本俊傑の人如此なる小技には心はかけぬものとぞとあり。〉
太閤、柴田を討時、越前の国境にて、毛受勝助勝家に代て、金の幣を執て戦ふ。太閤はら〳〵駆に往て少ゆきあたり、やれとて人衆を呼び、備をつくれ備をつくれと宣ふ。暫戦て毛受討死し、柴田退て北の庄へ帰る。
姉川の合戦、東照宮の勝事也。信長、朝倉義景と対陣のとき、東照宮先陣を乞ふ。信長叱して云、田舎者何とて能せんと。東照宮固く請。信長許す。即時に川を渡して敵を破り給ふ。此時信長の前を去る時、草履を横ざまに御つけ有しとぞ。
信長甲斐の四郎と対陣の時、鳶の巣の城を乗取ることを、酒井左衛門尉、信長に乞。信長叱して云、又者の分として何とて能せんと。左衛門尉重ねて請はず。即時に往て城を乗取とぞ。左衛門尉は東照宮の家臣也。東照宮、甲斐、信濃、上野を所領し給ふ時、威勢独盛也。今の宮内父〔四郎イ〕也。
東照宮語太吃す。人に対して常に善右衛門半右衛門とあり。善右衛門は阿倍伊予守也〈備中守父〉半右衛門は【 NDLJP:230】牧野内匠也。此両人出て応対す。
信長、公方を攻る時、公方宇治の牧の島の城にあり。時に五月雨しきりに、川水岸に余る程也。信長馬を水ぎはに立て、昔の梶原佐々木も鬼神にはあらじと云ふ。時に上流に馬武者一騎川へ打入るゝ者あり。信長云、必梶川弥三郎ならん、他人にあらじと云。果して然り。佐久馬が軍これを見て、梶川うたすなとて勢を尽して打入れ、大に勝つ。弥三郎四五日前に、黒の馬を信長より拝領す。その時より此事あらば先登すべしと心に決す。弥三郎は甚博奕を好む者なりしとぞ。
太閤の時、又者の名高きは、刑部卿堀監物〈左衛門臣〉松井佐渡〈肥後守の臣〉
庄林隼人、鉄砲にて頭悩を撃抜れしは、伊勢の嶺の城を攻る時也。
秀頼伏見より上洛毎に、御幸町通を来る。狭箱の大さなる箱に、人形のあやつり有て、銭を入れば転倒するを、毎々歩行の者負て興の先に行く。其時独眼の正宗、御幸町にて奪て取り、負て輿の先に行きけるとぞ。伏見の豊後橋にて、東照宮の傘指たる者と争ひ取て、藤堂和泉指かけたるも正宗に同じ。
太閤、氏郷を会津に封じて後出仕す。太閤他事を問はずして云、汝手を能く書けり、謡本を一番書て呉よ、硯紙を持来れと宣ふとぞ。君臣心安き間がらなり。
太閤或時宇喜多殿にて能を見物し給ふ。庭に下り給ふ時に、東照宮下りて履を正しうす。太閤手を以て肩を押へて、徳川殿に履をなほさせ申すことよと宣ふとぞ。
氏郷ある時諸士を饗す時、自から頭を裹て、風呂の火を焼しとぞ。
松平勘四郎忠勇の者也。今の山城守祖父也。山城守篠山城主。
額田小牧は皆尾張の内也。小牧は東、額田は西、額田は太閤の陣なり。常真大御所は小牧にまします。この時太閤方の先手蒲生飛騨細川越中〔山斎〕也。敵と相向ふの時、額田の東二里計に、二重堀といふ所にて、越中は飛騨を捨ておひおろす。飛騨は路止て敵を拒ぎ、太閤の陣へ来きすと也。亦長湫と云は、此時太閤方池田勝入、額田の北犬山に陣あり。犬山の東岩崎の城に、大御所方丹羽勘介籠る。犬山より額田迄五里計り、勝入額田に往き、太閤にまみえて云、能人衆を率ゐて三河に入り、敵の本郷を焼討にして、妻子を屠る程ならば、敵よも小牧にはこらへては居らじと申す。太閤云、思様にはならじとて許さず。勝入明日又往て固く請て云ふ、今の計是に過たるはなしと申す。太閤許す。勝入父子〈勝九郎也三左衛門父〉
共に発す。然れども岩崎の城を攻破らざれば、三河に入がたし。先岩崎に赴かんとす。勝入案内者なれば、路次の百姓に運啓たらば、能せんと云触れて〔今度勝利あらば重く賞すべしとてイ〕、夜をこめて往く。犬山岩崎の間に長湫あり。勝入の謀漏れて、大御所〈大御所以下一本東照宮前夜より長湫に至給ひ勝入来るを今や〳〵と待。勝入案内者なれば百姓等に此度の勝を得ば三年作り取にさせんといひつゝ長湫に至るに夜未だ明ず。東照宮方の軍勢しづまりかへつて有、勝入の先手同勢をすぐつて東陣へとつてかゝる安藤帯刀云々につゞく。〉是を聞、前夜より長湫に至て、勝入の来るを待つ。尤案内者なれば、百姓等に此度勝を得ば、三年作り取にさせんと云ふ。勝入長湫に至て夜未㆑明。此時勝入の先手は、已に岩崎に取かけ攻破と云。大御所方の軍勢しづまりて、先陣二番手の同勢を皆過して、本陣に取りかく。【 NDLJP:231】安藤帯刀先駆して、暗中に腰掛けたる法師武者を突き斃す。勝入とは知らず、坊主首取りては面目なしとて、また進んで子息勝九郎を撃殺す。そのあとへ永井右近〈信濃守父なり〉来て、死首をやす〳〵取て、後まで功にほこると云。此時森武蔵守〈勝入婿也〉犬山より南にあり。三河に入、岡崎の城を取らんと思ふ心在て、勝入を救はざりしが、急を告ければ、是非なく北に向ふ。長湫へ二里計往つかずして、敵とくんで討死す。本田八蔵と云者首を獲しが、捨て小脇指ばかり取て帰る。武蔵守と云ふことを知らざればなり。後脇指を見知りたる者有て告ければ、八蔵又往て首を取らんとて、敵に逢て討ると。勝入敗死の後、榊原式部、大須賀五郎左衛門、川を渡て敵に赴く。堀左衛門佐向て討破る。両将こらへず、士卒を皆討せて逃却く。井伊兵部来りければ、左衛問も新手を畏て退くとぞ。太閤此合戦の以後に、今度の戦我方勝たり。大将三人討死すといへども、首を獲ること数多し。家康は自身戦、我は動かずとのたまふとぞ。或は云、勝入討れたるは、一合戦して勝ち、後又敗軍して士卒を失ひ、つかれて独帰るさに討れしとぞ。
額田の時、常真大御所相謀て云、一の宮〈少かまへありとぞ〉を守ずば、二重堀のはたらき成がたし。誰をか置んと云。居て守らんと云者なし。太閤一撃に破らんことを畏て也。時に菅沼氏〈織部正父なり〉進んで云ふ、我ここを守べし、守ならずば討死せんと云。遂に一の宮におく。太閤撃ず。此菅沼一代の大功と成しとぞ。細川越中守〈山斎〉終に戦功なし。一度信長死去の年、甲斐国合戦に能陣を張れりとて太閤褒美す。この一事のみと云。
明智初め細川幽斎の臣也。幽斎の家老米田助左衛門など悪しくあたりければ、明智こらへず信長に帰し、遂に丹波一国〈五十万石計〉近江にて十万石〔十一イ〕を所領す。明智常に云、全く米田が蔭なりと。是故に山斎を婿とす。
信長、明智に命じて、太閤西国討手加勢に遣す。是故に軍勢を御目にかくると云に託して、丹波より上洛す。壬午六月二日也。実は信長を弑せん為也。故に早々軍立して、大江坂を越て田の水白く見ゆ。其より田の中とも云はず、真直に早駆すと云。明智初め取みだす事共あり。五月愛宕に登て連歌あり。紹巴至る。明智遽てゝ人に問て云、本能寺の堀は深きかと。紹巴聞て云、物体なき事を思召立やと云へりとぞ。
明智、亀山の北、愛宕山のつゞきたる山に、城郭を構ふ。この山を周山と号す。自らを周武王に比し、信長を殷紂に比す。これ謀反の宿志なり。
筑前守は信長の手の者の様にて、其上
磊落の気質なれば、人に対して辞常におごれり。明智は
外様のやうに、其上謹厚の人なれば、辞常にうや
〳〵し。或時筑前守、明智に云ふ様は、わぬしは
周山に
夜普請をして謀反を
企と人皆云ふ、如何と。明智答云、やくたいも無きことを云やとて、笑て
止みにけりとぞ。
【 NDLJP:232】高麗の役に、已に其都を攻め取て後、清正前み行事三十里計、諸軍都に居て守る。食已に尽き、諸軍堪がたし。皆云、都を去て糧に就んと。独り加藤遠江云、清正は已に前み行くこと卅里、今都を守らずして去る者は男はなるまじと。皆云、食なしと。遠江云、砂を食はんと。皆云、砂くはれじと。遠江云、砂の食ひ様あり、せがれどもしらじと。又福島に謂て云、一松、〈左衛門大夫小字〉いつのまに大きくなりたるぞと。又備前中納言殿に謂て云、今迄は中納言様と云き。自今以後中納言めと云べしと。其日の晩、清正帰て都より三里計に陣を張り、使を遠江方へ立て、我今此所を守て、敵を来さじ。安々と兵糧を取寄べしと云送る。誠に天命也。
太閤の時分は、屋を造に指図と云ことを云はず、御縄張と云ふ。太閤天下を得て後、御縄張ありし時、水棚の縄張を、人見て向ひへ短し、台所に相応せずと云。太閤のたまふ、天下を得といへども、人の手長く成べからず、向へ長くする理有べからず。
治部少輔乱の年、津田長門守〈所領二万石〉と云人、鞍馬詣の帰さに、加茂にて女の乗たる興をあけて見たり。
此女後藤長乗が妻也。光乗と云老人附たり。長乗が伯父也。長門が所謂を見て云、是は長乗が妻也。長門殿見知たり。比興なることをあそばすと恥しめり。長乗は東照宮御懇志の者なれば、長門守身上あやふしと人皆云へり。其秋改易せらる。東照宮乱やみて御上洛ありし時、桑名へ迎に出て直に申上しとぞ。
太閤、加藤左馬に出す感状に、大名に臆病者ありと云ふことを書れたり。是は豊後に大伴とて大名あり、是が事也と云。
清正初め所領三千石、太閤に言上し、肥後半国を討取り直に拝領す。二十五万石計。
太閤の時分、伊賀をば筒井伊賀守所領す。十万石計也。脇坂甚内領知三千石なりし。太閤に言上して往て討取。
三好と人の云伝るは、三好修理大夫也。本は細川の家臣也。細川を滅して一家繁昌す。修理大夫は光源院殿乱以前に病死す。此内に三人衆とて、おもたる三人の臣あり。三好日向守と云も其一人也。永禄八年に義輝を弑せしは此三人衆也。修理を昔は人呼て将作〔作佐イ〕と云しとぞ。三人衆とは不和なり。
松永霜台は、三好が臣也、
〈修理大夫の乳父也〉三人衆とは不和也。後信長に属しけれども、信長美濃尾張の気習にて
疎暴なれば、終に我身
安からじと思ふにや、大和志貴の
毘沙門堂に城を
構へ
謀反す。此時討手に城介殿を遣す。城中人数
少かりければ、大阪辺へ加勢を
乞ひ
遣す。其使を
執へて城中の案内を
能聞き、加勢来れりとてたばかり、門を
開せて押入遂に城を落す。霜台は
秘蔵の茄子の茶入平蜘蛛と
云釜を打砕きて、其のち自殺す。子をば右衛門大輔と
云。大阪の方へ
落しけれども、
路次にて
雑兵に殺さる。
人質の子をば捨て謀反す。信長の方にあり、
庶子也春松といふ。
霜台亡びて後、車にて
大路を渡して、六条河原にて
誅す、年十三歳也。老人と同年なり。
【 NDLJP:233】信長の時分は、弁当と云物なし。安土に出来し弁当と云物あり。小芋程の内に諸道具をさまるといふ。偽ならんとて信ぜぬ者ありしとぞ。又狭箱と云ふ物なし。狭竹と云物を用ひたる也。狭筥は大阪の津田長門守初て製するとぞ。
霊陽院殿は、光源院殿の弟にて、南部一乗院の門跡にすわりておはす。三好が光源院殿を永禄八年に弑せしより、一乗院殿なげき給ひて、方々の大名を頼けれども承引せず。岐阜に往き信長へ言入れ給くは、信長尤やすき事なれ、天下を取て与へんとて、同道して上り、三好が党を討て、霊陽院殿を天下の主と定め、本国寺に置て能守り給へとて、頓て又岐阜へ帰れり。信長本国寺におはせし時、摂津の辺池田伊丹など云ふ者等、礼を申て帰服す。信長岐阜へ帰られし後、三好が余党尼崎辺に居たる者ども、又発り来て本国寺を攻む、是を本国寺合戦と云、永禄十一年比也。本国寺已に外郭を攻め破られて、藪一重になりけれども、初信長へ服したる伊丹池田等来て、三好党を討亡して、遂に昌山恙なし。
信長も早速駆来らるれども、既に乱しづまりて後也。さて本国寺にも心元なしとて、室町武衛陣に城を築て、昌山をすゑらる。今の武衛陣東側は石垣なり、西側は町屋なり。家中の武士は、面々屋を構へよとの事なれば、本国寺の宿坊を皆引取て家居とせり。信長霊陽院公方は恩有し人なり。然るに其後信玄にたらされ、一味して信長に謀反す。信長其儘上りて、城を攻落す。公方逃げて宇治の牧島の城に籠れり。牧島の城は公方に属したる小城なり。信長又進駆、牧島の城を乗破る。公方逃て、西国にて、毛利を恃て隠居る。後太閤の御代に、伝を以て出られけり。公方の末とて、所領もいかめしからんと思はれしに、讒に二百石をあたへて咄の者とす。後病死す。
信長城を武衛陣に築き、公方をすゑて慶賀の能あり。老人も四歳ばかりにて、乳母に抱かれて見物す。其日信長は小鼓を撃れしなり。長岡山斎は老人に歳長じ、六歳ばかりにて猩々を一番舞れし。其時帰りに門外にて、盗に後ろの紐を切られしことを覚たりと語れり。其比は盗人刀のかうがい小刀抔を抜取ことを得たり。是故に盗をぬきと云し。今のすりと云が如し。
太閤は明智が謀反の時は、高松の城に有。備前は已にしたがへり。備前は宇喜多殿也。宰相殿は幼少也。父は腰抜て用に立ず。家老に岡野豊前といふ者才ある者也、太閤に一味し、味方を致さんといふ。
〈此時宰相殿を婿にせんと云約あり。〉是故に備前を通りて、備中高松の城へ取かく。此城は毛利家の城にて、毛利の臣城を構へて居る也。水攻にして已に落城せんとする時、明智謀反の事注進あり。此故に和議にして大将ばかり切腹し、諸卒を助けられけり。大将筏に乗て腹切たりと云。明智事注進ありし、太閤はかり知れり。敵方も聞たりと云は非なり。
【 NDLJP:234】
坤之巻
佐々陸奥守は信長の
譜代の家也、柴田などと同じ。信長
死去の
後太閤
討つ。降参して坊主に成りて大津へ
来れり。此時太閤大津の城に居て、礼を
受く。陸奥入道大津の
城中にて、
武道物語ありしに、浅野弾正殿
〈紀伊守父治部と両輪の出頭人なり。〉を散々に
叱す。武道の事、わぬしらの知ることに非ずと云。
人聞て
後にあしかりなんと皆云ふ。太閤肥後半国を陸奥守に
与ふ。
〈半国に主計殿の領也。〉入部の後
一揆度々発り、
様子悪かりければ身上
果たり。弾正殿のさゝへも有しと云ふ。陸奥守入道号は道閑、尼崎の寺にて
自滅、尼崎に石塔
有と
云。
土佐は蓮池氏の人、昔より領して、近代まで其子孫あり。先祖、頼朝の弟土佐冠者希義を殺して、土佐を取し者也。近世長曽我部元親討滅して、土佐を領す。
大内介は、西国一の大名なりし。周防の山口の城に居る。紙を大明へつかはし、書物をすらせて取寄けり。今に至て山口本とも、大内本とも云。此臣に陶氏あり。陶、後に大内を取てのけ繁昌しけり。大内子孫微にして、信長の時分まで有しとぞ。毛利元就、陶尼子等を滅して大名と成、元就の父を弘〔康イ〕元と云。此時はいまた微々也。
伊予は河野と云者領す。義経を伊予守に任ぜらるゝ時、誅伐せらるゝこと有、義経一代の不覚也。其子孫信長の時迄あり。
丹後には一色とて屋形あり。信長天下を得て後、細川幽斎に丹後一国を与ふ。一色をば婿にして、幽斎所領の内纔に与へて、弓の本と云城に居らしむ。信長死去の明日、幽〔山イ〕斎御屋形を呼寄て、手撃にして城をも取れり。御屋形は幽斎の姉婿也。其時に米田監物と云物刀を持来て、誤て幽斎右の傍に置。幽斎執らんとするに便あしゝ。米田さとつて傍へゆく。次でに、過ちのやうに、足にて刀を蹴て取なほす様にて、左の傍に置く。盃酒の間に幽斎とつて、抜撃に斬てけるとぞ。
太閤高野山へ参詣の時、割粥を進めよとのたまふ。暫ありて料理人調て参らす。太閤喜て云、高野山には臼無き所也。我が割粥を食んことを知りて持来る、料理人才覚の至也と云。実は持来らず。俄に多人数にて俎の上にてきざみ割粥となせり。後に咄の次に申ければ、大に怒て云、無くはなしと云て、常の粥を出さんに、何の仔細かあらん。我力には一粒宛けづりて食ふも、心の儘なれども、左様のおごりけることはせぬもの也とて怒られしとぞ。
福島左衛門、加藤主計は、
志津ヶ
岳の時分は二百石の身上也。志津岳
高名の後、七
本鑓の衆中は大方三千石被下、左衛門は五千石に成る。
後播州龍野にて六万石、又後尾陽にて二十万石、後安芸にて五十万石に
成。
福島志津岳軍法破りし罪に依て、
刀脇指を
取れて、
御勘気蒙りて居たりしが、隠出て高名す。当時は太閤
怒り
給へども、実は
喜べる故、恩賞他に勝れたり。
【 NDLJP:235】難波の役、冬陣に大名中に白銀を分ち下さる。加賀、仙台、薩摩などは別しての大名なれば、台徳院殿より白銀三百枚、東照宮より二百枚、合五百枚づつ下さる。森作州等の大名には、二百枚と百枚と合て三百枚下さる。作州は其時即日に、京の町人より借りたる銀を償はれたり。人の感たる事也。
信玄方より昌山を誘て、信長は元来むごき人也。後に為悪かりなん。今此方と一味し、攻め亡しなば、後安堵せしめんと云。昌山不覚人也、諾して謀反す。昌山は人衆も寡きによりて、京の口々を町人を差遣して守らしむ。今の東洞院東かはゝ堀也。今出川口も、今の所より西にあり。信長注進を聞き、少も待ず上洛す。洛城へ直に寄せず、知恩院に陣を取り、在郷などを焼払はれたり。其内に西陣より自焼をして、京の町三条より上は大方焼たり。町人等も其れより落て、愛宕、高雄、中郷なんど云所へ、妻子ともに引越て隠居る。京の城もはだか城になり守難く見えしに、又あつかひに成て、宇治の牧島の小城に往て居れり。又事発て、信長取かけ攻落す。公方は西国に往て、毛利を頼み隠れ居れり。此時は信長岐阜におはし、未だ安土の城なし。扨越前の朝倉を攻て一門を討滅し、柴田を越前にすゑ置、其後は東には信玄、西には大阪の城に、本願寺門跡〈今の祖父〉こもれり。両方の働きに殊外苦労す。一年に両度つゝ大阪寄ありけれども、且方多く、又は紀伊の地侍おほく擅越なる故、度々加勢し落着せざりけり。漸々あつかひに成り、城を渡さんとしければ、又門跡〈今の親〉の子同心せず。父とも不和になり、一年程籠れり。父紀州に居る故、紀州の加勢来らず。因之一年計ありて、又あつかひになり城を渡せり。扨東照宮は浜松におはします。信玄方より度々攻寄られ難義なりしを、信長救はれけるにより別条なし。駿府には穴山と云大名居れり。東照宮と共に信長に帰す。ある時、両人同道して上京ありて、方々見物す。京より大阪和泉へ往く。堺に御座す内、明智謀反して信長を弑す。是より両人伊勢路を越へ本国へ帰る。穴山路次にて一揆に殺さるゝと云、又東照宮の所為なりとも云。さて駿府も安く東照宮の御手に入る。甲州に河尻与兵衛と云者居けるが、是も東照宮討滅して取れり。甲州は畢竟信玄の子の代に亡び、信長に攻付られ天目山に自殺す。
森武蔵守、本地は美濃の金山と云所を七万石所領す。信長の時、信濃川中島を与ふ。往て間もなく一揆発り、山も野も皆敵也。人質五十人を前に立て、討抜けて本地に帰る。前代未聞の功名也。其路猿ヶ峠と云所まて来り、もはや敵の追かくる念なかりければ、人質五十人を並て、武蔵守こと〴〵く手撃にせられしとぞ。
河井摂津守は、太閤の時の代官也。所領五千石。或人太閤に云、摂津守勘定を聞せられよと云。太閤云、かれは能にすけり。先づ勘定無用也。遅からぬことよと宣ひしとぞ。
氏直と和儀を相伝ること綿々也。氏直方より云ば、諏訪峠より東に八万石の領地、氏直が領ならでは叶ぬ所也。此を渡されば上洛せんと云。太閤与へんと宣ふ。諸臣同ぜず。太閤云、八万石の地を惜み諸卒を遠国の合戦に労すること不便なり。是を与へて後上洛せず、異変あらば其時軍を発せん。士卒【 NDLJP:236】の力倍べしと宣ふ、果して然り。
福島左衛門家臣に名高き者多し。福島丹後、村上彦右衛門、〈後紀伊に仕ふ〉大崎玄蕃、蒲田弥吉、可児才蔵、上月、大橋、〈茂左衛門〉吉村、〈又左衛門〉抔は小姓達にて、当時彼等が数に入らず。
聚落以後、大阪に造作の事あり。其勘定日数をへければ、太閤見給ひて、汝等が勘定はかどらぬは、定て材木等に利を得させんとならん。彼等が持る宝も、吾家にある宝も同じ。我用事有て取らんに、誰れいなと云はん。早く事を計へと宣ふ。
信長の時は禁中の微に成しこと、辺土の民屋にことならず。築地抔はなく、竹の垣に茨などゆひつけたるさまなり。老人児童の時は遊びに往て、縁にて土などねやし、破れたる簾を折節あけて見れば、人も無き体也。信長知行などつけられ、造作など寄進ありし故に、少し禁中の居なし能なりたり。是によつて信長を御崇敬ありて、高官にも進めらる。禁中、信長の時より興隆すと雖ども、太閤の初めまでは、いまだ微々なり。近衛殿に歌の会などあるに、三方の台、色あくまで黒きに、ころ〳〵とする赤小豆餅をのせて出されたり。然れども歌は今時の人に十倍す。
常磐井殿と云公家に、目見をのぞむ人あり。媒介の人云入れけれは、夏衣裳にては恥かしきと宣ふ。苦しからずとて具して行たり。彼人も夏の装束の事ならんと思ひしに、帷子も無て、蚊張を身に巻てあはれしとぞ。信長の時分也。
観世黒雪は宗雪が孫也。宗雪子無し。宝生太夫が子を養子とす。三郎と云。黒雪は三郎が子なり。宗雪も三郎も、東照宮御ねんごろにて、両人共に三河にて死す。今に至て観世の家、御家の太夫なるは此故也。相国寺石橋両度の大能ありしに、初度は宗雪、後の度は三郎が太夫なり。是は百年計以前の事也。脇は小次郎、大鼓は高安道善など出づ。小次郎一の弟子に堀池宗室と云ものあり。二日の能に、張良を二度芝居より所望しければ、宗室にさせたり。
樋の口と云大鼓の上手、津国より来て京にて時めきける。道善よりはるかに後なり。太閤の時分なり。樋の口が大鼓は老人も度々聞たり。石井了雲が姪に、石井伝右衛門と云ふ者あり。新在家南町に居る。彼が亭にて拍子ありて、樋の口が撃けるをも聞く、是が聞をさめ也。了雲も撃たり。樋の口は太閤の御前に御用ありて、拍子二番すぎて来る。笛は一増也。樋の口、一増に御老僧いざ一番仕らんと云。一増は此時老人なりしとぞ。
一増は豊後の者にて、備中屋と云者也。一増京へ来てより、牛尾など云笛吹も音を入れけり。其比笛彦兵衛木野など云ふ笛の上手ありしとぞ。桑垣元二と云ふ鼓者名高し。観世又次郎などより先輩なり。道成寺など有る時は、又次郎よりは桑垣が撃ちたる事おほし。桑垣は宮増が弟子にて男色也。鼓はすぐれざれども、物を知りたること比なし。
小次郎は信長の時分脇上手也と云。信長の初の比なり。小次郎が嫡子に弥次郎と云あり。是も脇の【 NDLJP:237】上手にて、小次郎に劣るまじと云。是は大徳寺やらんに能ありて、帰るさに僕に殺されたり。勝れたる男色也し。其弟に了室と云あり。近比まで存生す。是は脇は下手なり。
太閤内裏にての能度々の事也。其比謡を作て、明智討高野詣などいふあり。高野詣には大政所の幽霊出給ひて、あら有難の御弔やと云ことあり。太閤、東照宮、加賀大納言殿と三人狂言もあり。毛利輝元鼓をうたれし事もあり。道智当手になることもあり。明智討に明智になるは、其比山崎に居りし太夫呉松なり。
大蔵道智は、元来猿楽の家にて南都に居る。道意は東洞院三本木に居る。道智は大鼓の上手、道意は小鼓の上手也。拍子かけ声鳴音、残所なき古今の上手也と皆人云へり。道智が弟にて、年は二十計も下なれば、道意に鼓を習たるものは今も多しと也。道智が子は平蔵とて、平蔵が娣の子は源右衛門也。平蔵は早世す。源右衛門鼓は大蔵宗悦全取立たり。宗悦は六蔵とて、今の長右衛門父也。伊勢の津の者也。道智参宮の次に鼓を聞て、よき鼓にならんとて教たる也。大鼓余りに器用成によつて、平蔵がために如何と思ひて、小鼓に取立つ。
大蔵道智は道意入道と云者の子也。今春及蓮が弟也。道意は宮増が弟子也しを、道入同心になくして、宮増が師にて美濃権頭が直弟子となる。宮増は美濃権頭が弟子なり。
法華乱と云は、承応二年より百二十年計り以前のこと也。老人の父既在など一二歳の比と聞えたり。日蓮宗行はれて、京中に寺々多く成けるに、比叡山より尽く追放せんとす。法華宗是を拒ぎ大なる合戦有。今の新在家の者に、法花宗の檀那多し。合戦の時討死したる人数多也。老人の外曽祖も討死しけり。此時は公方家微々にして、上軽き故に放埓成事多し。
公方大智院殿の比、阿波国にも公方家ありて、京と両公方のやう也。阿波の公方軍を発して、京の公方を攻に上ることあり。討負けて阿波へ帰るとぞ。老人少年のころは、俗の諺に阿波衆の上りたる様ならんと云て、近比のことの様に云へりとぞ。
公方慧林院殿馬をせむるとて落馬して薨ず。少年時也。
老人少年の時、洛中愚者の名高き者、狂歌によめるあり。
観又〈観世又次郎〉や朱心〈後に朱伯と云一漢の一条囃知苦こと也〉祖竹〈笛一増が子〉に金山〈碁者〉田物也けり〈乞食の狂愚也〉
飯尾彦六左衛門は、慈照院殿の右筆なり。鳥養様の書法は飯尾より出たり。倭歌も好み詠めり。乱後京都尽く焼亡し、逃るを見て詠める、
住馴し都は野辺の夕雲雀あがるを見てもおつる涙よ〈応仁記に見えたり。〉
高麗の役に、太閤は肥前の名護屋に御座す。加藤清正は高麗へ往く。肥後と薩摩との境に佐布と云城あり。年来加藤与左衛門と云者に持せて此城に居らしむ。此時は与左衛門も高麗へ従ひ往く。其あとに薩摩地より一揆発り、佐布の城を取る。一揆の大将は梅北宮内左衛門、東郷甚右衛門と云者なり。【 NDLJP:238】佐布の城の留守居に、井上弥一郎、酒井善左衛門と云者、たばかりて一揆の大将を討取り城を取りかへす。天下無双の功名也。此一揆故に太閤の高麗行も止みたる程の事也。井上酒井に殊外御褒美感状有。井上弥一郎は肥後にありて、知行千石也。肥後没落以後は、青山大蔵方隠居分にて居り、其子に三百石を与ふ。近比死して今は常庵が孫に成たり。井上酒井が功を感して、太閤高知をあたへんとのたまへども、三成さゝへて止みけりとぞ。
世上に金銀沢山になる事、五十年以来のこと也。台徳院殿の時、作馬不閑所持の雲山と云茶入を、金森黄金百錠に求む。台徳院殿御聞有て、其価を与へんとのたまふ。折節三十錠は有て、七十錠不足なりと云。今の世と甚相違す。南都東大寺の奉加に、頼朝金五十両寄進せんと云はれしかども、其年旱にて調はざりしと云ふこと東鑑に見えたり。
疔の薬を日本人にならひたる事奇効良方にあり。
明智謀反の時、家老には知らせ、諸卒には知らせず、西国立とみな心得たり。亀山より樫木原まで出て、西国の方へ赴くやと思へば、直に京の方へ武者を推す。故に人皆不審す。桂川を渡りて、初て触をなす。未明に信長の御座す本能寺〈今の茶やが家ある所西洞院通三条二町下る〉に推寄、信長御自滅ありて火をかけたり。京中には何事とも知らず。新在家は他所にかはり、四方にかきあげの堀有て、土居を築木戸ありて構の内也。土居に上りて見る者は、明智が謀反ならんと推量して云者もあり。紹巴は内意知られけれども、何の左様の事あらんと、人の云をも制す。昌叱は思ひ合せたることありと云ふ。さて本能寺に火を掛てより、城介殿の御座す妙覚寺へ推寄する。其比は京の町家も、所々にわづかに有て障ることなければ、土居の上より分明に、水色の旗妙覚寺の方へ来るが見えければ、さては明智謀反すと慥に皆知る。妙覚寺は今の室町薬師町にあり。されども構無ければ叶はじと、南都の陽光院殿の御座す、小池の御所を借りて、城介殿移らる。陽光院殿禁中へ御のきあり。烏丸の方の門より出させ給ふに、肩興も無ければ、人の背に負て往く。又公家の正親町殿は、陽光院殿を見舞におはせしが、室町の方より入る。陽光院殿既に御出なり。敵急に攻ければ、出ることならで中にこもれり。能其の時の様子を見て後に語れりとぞ。諸士は皆大庭に並居て、正親町殿菓子に昆布有けるを持出て、諸士に与へられしに、其時顔色変じてしをれたるは、皆家に功有る歴々なり。意気揚々たるは皆新参なり。顔色変じたる者は討死す。意気揚々たる者どもは、皆狭間をくゞりて逃れぬとぞ。扨正親町殿は、室町の方に、一かは町屋のありけるに楽人の家あり。壁を乗越えて楽人の家に入り、装束を着し烏帽子をかぶりて出づ。よつて公家なりとて、ゆるして通しける故に逃れたりとぞ。妙覚寺已に破れて、其儘明智より紹巴へ使あり。町人に少もさわがぬ様に云はれよとなり。さて安土へ取かけんとて、其日午前より東に赴く。折節勢田の橋を、近江士岡山と云ふ者焼落しける故、其日勢田に逗留して橋を掛させ、明日安土に往き、安土を取り、婿左馬を人数三千程そへて安土に残し、明智は七日に安土よりかへる。安【 NDLJP:239】土に有ける信長の者共をば、蒲生より一夜の中に、男女ともに引取上て置けるとぞ。扨明智安土より帰る時、大和の国主筒井順慶を心もとなく思ければ、近江より直に大和路へ馬を向け、和議に成て六ヶ国を順慶に遣し、明智が子を養子にする約束にて陣をひく。此時明智より紹巴へ、大和已に和議に成り、洞ヶ峠まで引取たりと云状来るとぞ。明智大和路より引取り、下鳥羽に陣をとる。其時の薬院、太閤にも明智にも別て懇なり。折節太閤へ見舞に往て西国に有けるが、登りて下鳥羽明智が陣所へ立寄て、筑前守は此事を聞てはや上洛す、間は有まじと云ければ、明智あわてゝ、其夜雨のしきりに降けるに、桂川を無理に越しける故、鉄砲玉薬もぬれて用に立たざりしとぞ。然る所にはや太閤の先陣池田勝入、高山右近、中川瀬兵衛三頭、山崎宝寺の辺まで押来れり。明智が兵を散々に打破る。明智こらへずして、青龍寺の城にたてこもるを取巻攻ければ、其夜忍び抜けて東行しけるが、山科越にて百姓に殺さる。当分は知れず。やゝ日を経て死たる事隠れなし。太閤は、明智敗北の後に上り給ふ。筒井順慶日和を見けれども、つひに太閤に帰服せり。
太閤の時分、茶釜の名物は、菊水の釜とて菊と水とを紋に付たる釜あり。口広くはた壱寸計のこりたる程也。蓋は薬鑵の様にうちきせ蓋なり。蒲生の家に有りし物とぞ。
今公方家に有し大講堂と云釜は、叡山より出たり。大講堂と云字を釜の腹に横付に鍛付たり。丁酉炎上に滅す。是も口濶し。
後京極殿の書給へる歌仙あり。中殿の色紙也。九条殿に今につたはれり。
梶井御門跡に世尊寺伊頼の書ける朗詠集あり。佐理より六代目なり。佐理の朗詠より賞翫すとぞ。
太閤江州北の郡に御座す時、加藤喜左衛門と云人〈清正の伯父〉太閤に云るゝは、我甥一人あり。〈清正のこと也〉台所に置て飯くはせて給はれと云。太閤見給ひ、かしこく見ゆるとて五石与ふ。程なく二百石与ふ。本鑓のとき三千石を与ふ。又程もなく肥後二十五万石を与ふ。
氏郷も日野にて二万石の身上也。太閤伊勢の松坂にて十五万石を与ふ。後会津にて百余万石を与ふ。氏郷の近習の者、氏郷に問うて云、太閤以後関白殿に馬を繋がんやと。氏郷答て云、彼愚人に従ふ者誰かあらんと云。又問て云、天下の主たらんは誰ぞと。答云、加賀の又左衛門也と。又問て云、又左衛門是を得ずば如何と。答云、又左衛門得ずば我得べしと。東照宮の事を問へば、云ふ、是は天下を得べき人に非ず。人に知行過分に与る器量なし。又左衛門は人に加増分に過て与る物きれ也。取べきは此人なりと云へりとぞ。
加賀大納言、秀頼の守に付て大坂に居。此人其儘あれば東照宮御かまい有ること成がたし。或時東照宮を害する談合有しに、肥前守同心なし、其後加賀へ休息あれとすゝめて、東照宮大坂へ入る。是より天下東照宮に属す。
加藤清正の先手の大将は、森本義太夫〈五千石〉庄林隼人〈五千石〉飯田角兵衛〈五千石〉三宅角左衛門〈三千石〉飯田三宅は普【 NDLJP:240】請奉行也。此両人隠なき武勇の者也。江戸に於て評議ありて、又者にたしかなる武勇誰かと云し時、清正の内飯田角兵衛也。高麗にて天下の人数を引廻したるは、古今に是なりと云。又吉村吉右衛門と云者も、清正の内武勇の者也。
石田三成常に云、奉公人は主君より取物を、遣ひ合せて残すべからず。残すは盗也。つかひ過して借銭するは愚人也。
茶入高直に成たるも近来の事也。老人少年の頃は、世上おしなべて名物と云は、玉堂と云茶入と、利休が円座肩衝と計也。これも何程と云ことなく、無類の名物の様に云也。其後相国寺にありし、名をも相国寺と云唐の肩衝を、古田織部黄金拾一枚に求む。是高直の初なり。程もなく加賀へ千五百貫に売る。是は織部治部と間悪き故、勘定をせつかれて、勘定の為に売れし也。道哲親円浄坊取次で、代金を持来りし時、老人織部方に居合せたり。黄金六十枚と、蓮華王の茶壺一つ持来る。壺は此方より所望の由なり。円座肩衝は今江戸に有しが、丁酉の火事に焼失すとぞ。
日野肩衝は、日野唯心大文字屋にうり給ふ時、老人を呼で、此茶入黄金五十枚にうるべき約束す。少味悪き事あるほどに、五十貫おとして四十五枚になりとも、美作殿などに御取あらば遣したき事なり。自分に袖に入、持往見せよとの給ふ。見せけれども、代物調かねたるに因て首尾せず。遂に大文字屋が手に落つ。
小倉の色紙は、元来伊勢の国司所持にて、屏風一双に百枚押てありしを、宗祇の弟子宗長勢州へ下りし時、一双ともに国司与ふ。宗長辞退して一隻を留め一隻を受く。一隻は勢州にて火災に焼失す。一隻遺て世に伝ふ。其れも三十枚ばかりあり。紹鴎天の原の歌と八重葎の歌とを表具し、掛物にすとなり。
利休子道安茶の会に、老人五六年程つゞけて会す。鶴の一声と云花入に花をいけて、終に一度も掛物のかゝりたることなかりき。今時道具種々つらね華美を争ふは、心入各別の事也。其鶴の一声は、今公方家にありとぞ。
太閤の臣宮田喜八とて、武勇第一の人あり。或時太閤吾が弓矢次第に盛なり、昔と今と如何と諸臣に御尋あり。皆曰、三倍五倍と。太閤喜で云、十倍ならんと。竹中半兵衛独り云、弓矢昔に劣れりと。太閤喜ばずして何とて角云との給ふ。答曰、宮田喜八死て以来甚だ劣れりと云。太閤歎息して誠に汝が云通り也との給ふ。
宇喜田殿の事、元来備前の士也。浦上と云者備前美作両国の主也。宇喜田直家は浦上の家臣也。直家悪性の者にて、国郡を持たる人と縁者などに成て、後に殺して奪取事を度々する者也。浦上をも殺して、遂に備前美作両国の主と成。八郎殿は直家が子也。太閤と間よく成ことは、太閤備中高松の城を攻給ふ時、明智返逆のことを告げ来り、引取りたきと思給へども自由にならず。此時八郎殿一味して【 NDLJP:241】力をそへらるゝに依て、高松の城主に腹切らせ、まきほぐして上京、其忠によりて間能なり。聟に取給ふ、息女なかりければ、前田筑前守〈加賀大納言殿〉息女を養子にして、八郎殿を聟とす。此時分はまだ八郎殿十歳ばかり也。直家も存生なりしかども、瘡毒に依り人前成り難に因り、八郎殿を国主分にて、五万石三万石所領する家老共ありて、談合して高松の節も力をそへけると也。八郎殿太閤の智に成て復官位に昇り、宇喜田中納言殿と云。治部少輔乱まで、治部が方なる故に、東照宮の御利運に成て、八丈が島へ遠流せらる。今に存生の由也。癸卯の年老人九十九歳にて物語なり。
金吾中納言殿は、政所殿の姪也。政所殿御寵愛に太閤養子分になさる。始は微々成ことなれども、筑前一国を遣され、筑前中納言殿と云。治部が乱まで、二心なく伏見の城を攻落す。伏見の城は、其時東照宮御持にて、鳥居彦右衛門〈左京父なり〉留守居して有けるを、金吾殿攻落せり。其時抜群の賞禄も有べきと思はれけるに、治部其顔色無きを見て心替り、治部が乱に関ヶ原にて東照宮に属し、治部を攻滅したる忠によりて、備前美作宇喜田殿のごとくに遣はされたる也。筑前はあがる由なり。長嘯の弟也。家を嗣ぐ子なき故に跡たゝず。木下右衛門宮内などは其末也。
普光院殿の時、北野参詣に先を払ひけるに、或る少年馬より下りて、目届きの所につくばひける。普光院殿見給ひ、福阿弥と云同朋を遣して問はしむ。問ふべき詞なくて、相見ての後の心に競ればと云歌の、下の句は何と申すぞと問ふ。少年答曰、誰が誠より時雨そめけんと云歌の、上の句は何と申すぞと答へけり。其由を申上る。普光院殿面白き者なりとて、召出して寵愛甚し。因之前年より寵愛の小姓に心遠ざかりければ、其小姓恨て立退、嵯峨の辺に隠て居たり。方々尋ね求めけれども知れず。亦或時公方嵯峨へ遊行ありしに、伽羅の遠くかをるを聞給ひ、此香外にあるべからず。此辺に不審なる者あるか能尋見よとて人を遣す。或茅屋の内に、彼少年机の上に香を焼き閑にして有ける。公方直に至り給ひて、前々のあやまりを免し、還り仕よと色々に仰せけり。兎角に及ばず頭を下げ涙を落せり。公方喜て酒を呼て杯をさし、又かへさせ給て、日頃好める謡を一曲所望ありければ、姨捨の小謡をうたひけるとぞ。公方いよ〳〵感じ給ひて、寵愛昔に倍せり。
赤松普光院殿を殺せし時は、能ありて鵜飼の中入に刺殺せりとぞ。此時公方の帯せし脇差は、抜国光と云名物也。本阿弥といふ同朋が脇差を日比あづかれり。死前に両度抜て出たる科にて禁獄せられける。後に前表と知て抜国光と云。本阿弥日蓮宗に帰依すること此獄中よりとぞ。
叡山の僧宝地坊証信は、平家能登守の弟也。宝地坊に堅坐し、学問の大願を発し源平の乱を知らず。後牒状か返状かをかゝれよとて窓より納るゝことあり。此時初て知れり。然ども坊を出て、三大部の私記を著す。文義甚勝れたり。今に叡山に其坊有。今は宝地坊とは云はざるなり。
近衛龍山公は三藐院殿の父なり。
衰微の時薩摩に御座す。今用ふる肩絹半袴は龍山の初製也。素袍の袖を取、其れに裂加る物也。
【 NDLJP:242】雪踏はもとより有りて、革を加ることは利休よりと云伝ふ。
木綿踏皮は今の製法の如くなるは、長岡山斎の母初めて製し、山斎の茶の会に出らるゝ時、足冷るとてはかれしとぞ。
茶の会に丿観流と云あり。是は上京坂本屋とて茶の会を好む者あり。おどけたる茶の会を出す。初め号を如夢観と云、後に改めて丿観と云。一渓故道三の姪婿也。丿の字人の字の偏ばかり也。人に及ばぬと云意とぞ。宗易より少後也。
香炉の茶会と云ことあり。主人炭をなほして後、長盆に香炉と香合と香筋とを置て出す。料理まだしき時、是を出して勝手口の障子をはたとたつる也。其時上客香炉にある香を聞、左の袖より懐に入れたきとめ、右の袖より出し、たきがらを懐中して次の人へ廻す。次の客また香合の香を銀盤へつぎ、聞て左の袖より入れて、右へ出すこと初客の如し。末座に至り、たき終りて残りたる一炷を香炉に置き、上客に呈すれば、上客勝手口に置き、主人の為にする也。客五人なれば香五片、六人なれば香六片、香合に入るなり。大さは二分四方厚さは分半也。若し料理間もなく、又は客を試みんと思へば、勝手口の障子を細目にあけて置く。其時は初よりつぎて出たる香ばかりを聞てまはし、勝手口へなほす法也。香炉も必ず青磁のすぐれたるを用るにも非ふ、瀬戸などのこびたるなどよし、心得あるべし。茶屋に棚ありて香炉を置き、香を炷く時、炉へは焼物をたかぬ法也。
伊予の古寺より出たる中華名僧の詩巻、截て七幅とし世間方々に有之、脇坂淡牧に一幅有之、土井大炊に一幅有之、是は茂古林と妙道と両筆の物也。井伊掃部頭に一幅これあり。これは定門の手跡巻軸也。麩屋了佐所に有之とぞ。是は楚石也。
対馬より高麗へ四十八里、渡を経て釜山海に着く。下官のもの是に居る。倭館と云ふあり。日本人是に居る。釜山海より朝鮮の都に至まで二十日程、其間に東萊と云所あり。上官の者居る。
惺窩翁に儒道の事少聞たる人は、細川越中、浅野采女、曽我丹波、小畑孫一、城和泉等なり。
惺窩存生の時、林道春図書編を求め得しを聞て、数通の書を以て借られけれども、我手に入らざる由にて終に借さず。惺窩翁人に語りて云、道春は非道の者也。図書編彼が手に入ること分明也。偽て無しと云は非道也。あれども借すことならずと云ふむごきより遥に劣れりとぞ。
吉田素庵にありし文章達徳綱領十巻を、戸田以春と云者借りて、失へりと云て終にかへさず。今亡びぬ。
野槌に清原極臈とあるは船橋殿也。当時は皆称して極臈殿と云へり。外記環翠軒の曽玄孫の間也。
日向守明智云、仏のうそをば方便と云、武士のうそをば武略と云。土民百姓はかはゆきこと也と名言也。
太閤伏見在城の時、鉄砲四五十計放つ音す。座にある人皆々あやしむ。太閤云、大名共鳥など打に出【 NDLJP:243】て帰るさに、込たる玉薬を打抜くならんとて、あざ笑て御座す。見に遣しければ果して然り。此者共聞て少気味悪く思て、一両日過て御前に出づ。太閤笑曰、此比の遊び面白かりきやと、少も心に掛たまはぬ体なりとぞ。
太閤常にのたまふ。我に謀反するもの有まじ。我程なる主は有まじきほどにと。
舞を舞し女に、常磐と云もの、人招けば何方へも来りけり。石田三成が息女也と云。さもありぬべし。真西山の孫女さへ歌妓となりしとぞ。
信長五十騎にて、今川義元が四万の人衆を鳴海にて敗り、義元が首を取るは、川尻与兵衛と云者也。後信州にて死す。此時信長清洲に在り、乱舞して先手より来る文筥をも開き見ず。皆負たりと推するなり。馬を出して、熱田の神前にしばしまどろみて、夢覚たる体にて応ずる声三たびなり。是武略也。さて大雨のふるに馬を進む。轡を控て諫むる者あり。其時鞍の前輪をたゝいて、敦盛の人間五十年の所を舞はれしとぞ。人皆さらばとて押かく。義元台子にて茶会をする所へ、急に撃てかゝり勝利を得たり。此時義元の勢四万を七そなへに陣を立たり。間道より本陣へかゝりける故に、七そなへ空しくなるとぞ。
浅井畷合戦の人名、今の肥前守〈東照宮方〉高山左近〈太閤よりつけられし人〉山崎出羽〈肥前守両大将〉丹羽五郎左衛門〈治部方十万石加賀小松の城に籠居〉山口玄蕃〈治部方三万石兄肥前守に攻落されて死す大聖寺の城に籠り居る〉江口三郎左衛門〈丹羽方の功のものなり〉石田関ヶ原に大軍を立て居たる時、兄肥前守は東照宮の方なれば、山口玄蕃を攻落し、又小松の城も攻て見けれども、敵強くして落し得ずして引退き、関ヶ原の後巻をせんとて、廻らんとしけるが、また思案出来て、御幸塚と云所に人数少しのこして、軍の様子計ひがたしとて、本城へ引かんとせし時、路二筋あり。浅井畷は本城へ近うして小松の城の近辺を過ぐ。山づたひの道は、小松へも遠く本城へも遠し。高山左近は山づたひの道を帰りて、然べからんと云。山崎聞て怒て云ふ、浅井畷を帰らずば、男はなるまじと云。山崎は大身にて威強く、且家の子なれば、其指図に従て浅井畷を帰る。案の如く人衆を皆すごして、しつぱらひに長九郎左衛門通りけるを目がけて、小松より江口三郎左衛門出て衝くづす。九郎左衛門敗北す。其時太田但馬と云もの、返し合せて鋒を合はす。上坂主馬と云者大男小姓也。二番手鑓をつく。此時返し合せたる者七人、浅井畷の七本鑓と云也。丹羽方も五人計功名する者あり。さて互に引きけるとぞ。
江口は丹羽亡後に、越前の
黄門君へ召出し一万石所領す。越前の家の子に、高木勘平とて武勇の者あり。新参者の一万石所領するを怒て、或時江口が
膝に
迫りよりて問ふ様は、上方の
武辺と云ふは、如何様なるを申すぞと問ふ。江口答て云、上方の武辺と云ふは、人に武へん者と云れて、此殿の様なる所へ召出されて、高知行取を申すと云。高木尾も無き体にて、うんと云て退くとぞ。もし江口其時我が前々より武功など云立なば、我もそれ程の事をば、八百度もしたりと云はんと思ふ。江口は武のみにあらず、才もすぐれたる者にて
能返答せり。
【 NDLJP:244】明智乱の時は、東照宮堺に御座す。信長羽柴藤五郎に命じて、家康に堺を見せよとて附て遣す。実は先きにて間を見て害する謀なりとぞ。東照宮運つよくして明智が事発り、太閤西国より登り給ふ時、伊賀越に三河の岡崎に馳帰る。明智が事なくば東照宮危き御事也。
多賀信濃守は豊後守が子也鼻くた也。山崎合戦の時明智に属すといへども、味方の負を早く知り、桂川の渡し守に銭拾貫与へて、信濃守者をば早く渡せと云て逃崩す人也。後に太閤に降参す。旗色を見申たりとて褒美し給ふ。信州子なければ養子す。
丹羽五郎左衛門家臣に、成田十左衛門とて勝たる武士あり。七十万石を取上げて、子の代に四万五千石になりし時、広間にて十左衛門云は、我に一味せん者誰か有ると。座の人皆答へず。十左衛門云、皆人に非ずと。後太閤へ聞えて伊勢にて誅す。
黒田如水病重く、死前三十日計の間、諸臣を甚罵辱す。諸臣驚て云、病気甚く殊に乱心の体也。別諫むべき人なしとて、其子筑前守に云ふ。筑前守如水の心に通ぜず。近づいて密に云ふは、諸臣畏れ憂ふ、少し寛くしたまへと。如水耳をよせよとて、小声に云はれしは、是は汝がため也乱心に非ずとぞ。諸臣にあかれて、早く筑前殿の代になれかしと思はせん為なり。
謙信は全盛五ヶ国に手を伸ぶ。信玄は八ヶ国に手を伸ぶ。信長は十九ヶ国半、太閤は天下一統して力余れり。
惺窩浅野紀伊守殿にて、孟子一段を講談す。生於憂患而死於安楽と云ふ段也。講談後紀伊守殿云へるは、我れ石田治部と間悪し。治部存生の中は、励んで人に非を入れられず、身も健固也し。今治部死し其上御所様御ねんごろ、佐竹島津にも殊ならず。是に因て気ゆるみ病気却て生ず。賢人の語少も相違これなしと云はれしとぞ。
羽柴長吉は太閤の小姓、無比類美少年也。太閤或時人なき所にて近く召す。日比男色を好み給はぬ故に、人皆奇特の思ひをなす。太閤とひ給ふは、汝が姉か妹ありやと。長吉顔色好き故也。
神馬弾正左衛門は、太閤の時分、播州辺の大名也。
一柳監物欠唇也。人指合を云へば事の外怒る、晋の符堅に似たり。
島田弾正法名由也
〈越前守兄〉直士也。戸島刑部、井上主計を斬し後、城中にて各評論ありて、戸島が挙動殿中に於て前代未聞の事也と云。由也座に在て云は、又重ても年寄衆を斬らんとならば、殿中ならでは成まじと云。痛快々々。又或時老中会して、米
高直にして万民
困窮すとの評議あり。その時由也云、老中の歴々、米の買置などめさる間、米何としても
下直には成まじと云。誰買置れたると云はれければ、
先酒井讃岐殿からが買置きめさると云。其時讃州云、我
聊此事なし。さらば深津九郎右衛門を呼とあり。深津来りて、曽て此事なしと云。由也居長高に成て、某月某日大豆何程買しを知たり。馬の口も限あり、是は買置にあらずや、其外証拠多しと云ひつめたり。如
㆑此の人今は
不㆑聞。
【 NDLJP:245】鷹の事に能く通じたるは、古の根津と云ふ者也。鷹の羽を続ぐ事、根津が女より起れりと云伝ふ。根津が留守に鷹の羽を損ひて、別の羽を以て続ぎて置しを、根津帰て手に居ゑて不審をし、鷹常より羽をひきて重しとて問出しけりとぞ。奇特なること也と云伝ふ。
高麗の書に鷹体総論と云あり。
相国寺普光院の宣長老は、董甫〈大徳寺の僧〉の弟にて惺窩の伯父也。の僧当時五岳第一の学者也。宣かつてしゆん首座〈惺窩のこと〉に逢ては、物が云れぬと云へり。其儘こみつけらるゝ故也。当時の人、宣を勝たる人と知る。其人かく云故に、さては惺窩傑出なる人と云事を初て知れる也。
織田常真家臣土方河内名高き者也。傍輩岡田長門と云ふ者、太閤へ内応せしこと露はれて、常真手撃せんとする時、此人世に勝れたる剛の者なれば、土方抱き付て斬らしけりとぞ。
北条が老臣松田尾張が嫡子笠原新六郎〈他家に養子となり〉異心ありて、太閤の方へ内応し、引入るゝ計をなす。二男松田左馬助同心せず。去に因て座敷籠に入れ置しを、ざしきろう内の者に云合せ、具足櫃の内に入て出、北条が城に入て様子を告ぐ。其日はや大に知行を与ふ。尾張大身にて持口広し。是に因て騒動する所に、已に取かけたるとぞ。後に太閤黒田如水に命じて、左馬助を誅せしむ。松田を誅せよと有しを、如水聞あやまりたる顔にて、尾張と新六郎とを誅す。太閤如水を責む。聞あやまりたるとて、別の仔細なかりし。是如水一生の勝事也。左馬助後に加賀大納言殿へ出て五千石を所領す、近比に死すとぞ。
信長は天性吝嗇の人也。相撲取の三番打したるに、焼栗一つ褒美に与ふる様の人也。後に大名共を多く斃し家を亡すは、我子共又は近習の出頭人に知行与へん為なり。太閤其心に能通じて、我子無し御次様を我が子にいたしたきことに候。我れに下されよ。近江北の郡長浜十万石を譲り申さんと云。信長大に喜で、其方は何とせんと云。太閤云、御朱印頂戴申たらば、西国の二三ヶ国は、二ヶ月三ヶ月の内に討取り候はんと申さる。さらばとて朱印を出し、竹中半兵衛と云名将を副られ播州の方へ討立たれし也。太閤手勢寡し、加藤左馬等も従ふとぞ。
東照宮の出来軍七ヶ度なり。青塚、額田、長湫、蟹江、阿弥川、川鰭等也。
小田原陣の前年、東照宮のあつかひの時、本多作左衛門を遣す。
武士の名高き者、信長太閤の取立の者尤多し。其外に名高き者は、林長兵衛、堀監物、伊岐豊後。
善悪報応の理決しがたし。細川の先不仁にして、子孫今に盛んなり。池田勝入は信長の乳母の子にて、城介殿常真など同じ乳房に育せし人なり。常真に向て弓をひく理なし。小牧陣に太閤の黄金五十枚の賄にあざむかれ、常真に敵をなす重悪の人なり。然れども其子備前、備中、播磨に手を伸べ、因幡伯耆に手を伸る子孫もあり。加藤肥牧などは律義なりし人なれども、後已に絶えたり。