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源時中

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
源時中
時代 平安時代中期
生誕 天慶4年(941年
死没 長保3年12月30日1002年1月16日
別名 致仕大納言
官位 従二位大納言
主君 村上天皇冷泉天皇円融天皇花山天皇一条天皇
氏族 宇多源氏
父母 父:源雅信、母:源公忠の娘
兄弟 時中済信時通時叙時方藤原道長室・倫子藤原道綱室・中の君扶義通義済時致平親王妃、藤原定時
藤原安親の娘
済政信時重時惟時朝任則孝経相
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源 時中(みなもと の ときなか)は、平安時代中期の公卿左大臣源雅信長男致仕大納言と号す。


経歴

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村上朝天暦11年(957年昇殿を許されると、右衛門尉右近将監を経て、天徳5年(961年従五位下叙爵する。

侍従右兵衛佐を務めたのち、康保4年(967年左近衛少将安和元年(968年従五位上、安和2年(969年右近衛少将天禄3年(972年正五位下、天禄4年(973年従四位下・右近衛中将、天元2年(979年従四位上永観2年(984年正四位下と、冷泉円融・花山朝の20年近くに亘って近衛次将を務め、昇進を重ねた。

寛和2年(986年)正月に春宮・懐仁親王の春宮権亮に任ぜられる。6月に寛和の変が起こり、花山天皇の出家に伴って懐仁親王が即位一条天皇)すると、時中は春宮権亮の功労により正三位参議に叙任されて公卿に列した。議政官として、大蔵卿兵衛督を兼帯したほか、皇太后宮権大夫として皇太后藤原詮子にも仕えた。

その後も、正暦3年(992年権中納言長徳元年(995年中納言、長徳2年(996年大納言と昇進し、長保2年(1000年従二位に至る。

長保3年(1001年)8月に官職を辞任し、同年12月29日病により出家。翌30日に薨去享年61[1]。最終官位は致仕大納言従二位。

人物

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管絃・歌舞に秀でたといい、龍笛和琴郢曲などをしたという[2]

官歴

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注記のないものは『公卿補任』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ a b 『日本紀略』
  2. ^ 尊卑分脈』宇多源氏
  3. ^ a b c d e 『近衛府補任』

参考文献

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